悠子 1 


 「ねぇ、君、私を満足させられる?」
 私はそんな風に聞いたのだ。
 とても意地悪な気持ちだった。こんなチャラチャラした坊やに出来っこない、身の程を知るが良い。女そそのかして、それが自分の価値だと嘯いているようなこんなお子様、痛い目を見れば良いのよ。そんなひねくれた気持ちで、苛めてみたのだと思う。
 誰でも良かったのだ。生きて動いている男なら、その日の私の標的には充分な素材だった。だから、目に付いたその子を捕まえてそう呟いただけだったのだ。
 所が、その子はぐいと私に身を寄せた。
 一瞬呆けた表情を見せたものの、次の瞬間にはガチンコ宜しく私の目の前に金髪の頭を近寄せて、上目遣いに私に挑んだ。
 「逆っしょ。俺を満足させられんの、おネーさん?」
 


 新宿の片隅にあるバー兼ホストクラブ「KID」。
 私はそこの常連でもなければ、正直、ホストクラブに行った事だって無かった。
 毎日毎日、男と一緒に風呂場に入って、男の体を洗って洗われて、男が楽しいと思う事に付き合ってお金を貰う商売をしている。世間一般には「ソープ嬢」と言う人種なのだ。
 何が楽しくてとか、何が悲しくてとか聞かれるが、そんなのは人それぞれ、理由ぐらい誰だってそれなりに持っている。私にだってそれなりにある。でもそんなのはどうだって良い。
 悩んでも笑っても仕方がない。指名客だってそこそこ居るし、上手くこなして食べて行かなきゃならないのが、生活って言う物だ。
 商売を初めてから、男って物がどんどんリアルに見えて来るようになった。息をして、食べて寝て、欲望とか排泄物とかを女と同じで一緒くたに吐き捨てる、人間って言う生物の片割れ。どんどん冷めて来る目に、今や幻想なんて物はない。
 憧れとか理想なんて言う物は、きっと石鹸の泡になって排水溝に流れちゃったんだわ、なんて時々不意に思う。
 だから、ホストクラブにも行った事がなかった。
 だって、こちらが男から貰った金を、またぞろ同じ男って奴に使うのなんて勿体ない。入れて出して、結局は何も残らない、なんて言うのは、日々怠惰に行われているSEXぐらいで充分。
 そう思ったから一切行かなかったのだ。それに正直、そんな気にもならなかった。………今日までは。

 「はぁ〜〜〜〜あ。」
 大口を開けて新米ホスト君があくびをする。
 煙草を吸わないらしく、大雑把に並んだ歯にヤニの痕はなかった。きっとこの子の肺の中も、こんな風に真っ新なのに違いない。健康優良児と言う奴なのかしらと、懐かしい言葉が頭の中を横切る。でも、腹の中はどうなのか知れたものではない。
 「何だよ、おネーさん、俺の顔に何か付いてる?」
 「目と鼻と口。」
 「つまんね。」
 家に真っ直ぐ帰りたくなかったのだ。
 始発の走り始める午前五時。たらたら歩いて辿る家路が、今日はとてつもなく遠く感じられたのだ。
 だから、途中で一休みをした。それがたまたまホスト街の外れだっただけだ。
 バーの看板が見えて、寂れた感じの小作りな建物が目に入った。青い光を差し伸べるネオンの看板が、しらみ始めた街の底で、何だかオアシスじみて見えた。古びた煉瓦の壁が、羽を休める吾妻屋に感じられた。
 だからまるで雨宿りでもするみたいにそこに入っただけだったのだ。
 そこ。
 バー兼ホストクラブ、「KID」。
 

 「不機嫌そぉ。おネーさん、俺をアフターでお持ち帰り出来るのに、楽しくない訳?」
 新米ホストがしたり顔で微笑みかける。
 可愛くない訳じゃないけど、この子、私のタイプじゃない。
 肩口まで伸びた髪は、脱色しまくった金髪で、トウモロコシの産毛みたいな色だった。今風の、顎の小さい顔立ちの、横幅一杯の大きな目。とおった鼻筋も形のいい唇も、確かに良い感じなんだけど、何か気に入らなかった。
 何だろう、と考える。
 強いて言えばこれかしら。
 勝ち気そうで、やんちゃ坊主丸出しの、人に挑みかかるような目。
 「生意気な子ね。他の人が忙しそうだったから、暇な新人君に声かけて上げただけじゃない。」
 「あ、冷たいイイグサ。おネーさん、冷たい人だって言われねー?」
 「おネーさんおネーさん、うるさい。」
 「じゃ、ユウコさん。」
 ちょっと驚いた。
 店に入ってから私は一度も名乗っていない。何人ものホスト君が周りを取り囲んで、何て呼べばいいかと聞かれたけど、私は自分の名を教えなかった。教えなかったのに。
 しかも彼の言ったそれは本名だ。最近では、店で使う源氏名の方が使い慣れて、そちらで済ます事の方が断然多いのに、生意気なホスト君はさらりと私の本名を口にしたのだ。
 「へっへー、驚いたべ。」
 私は自分のバッグを探る。この子が超能力者でも無い限りは、ヒントは私の持ち物の筈だ。答えは直ぐに分かった。
 「携帯………」
 「そ。ユウコさん、店に入って直ぐに携帯かけてたじゃん。白のボディに赤いシールで「Yuko」は目立つぜ。」
 屈託のない笑顔。子供がお母さんに買い物を頼まれて、頼まれた品物を凡て揃えて来た時の笑顔。
 ほっぺたの辺りに「誉めて誉めて」なんて書いてありそうな笑顔だった。
 「そんな風に呼ばれたくないの。おネーさんで良い。」
 ふーん。
 誉めて貰えなかった子供は、口を尖らせてそう呟くと、直ぐに笑顔に戻った。
 「ま、俺の、おネーさんチェック度は完璧っつう事で。俺の名前しんないでしょ、俺はね〜〜。」
 「亮でしょ。」
 ずばっと言ってやった。
 得意げな悪ガキの表情が、驚きに凍り付く。指を突きだした姿勢のまま、身動きも滞る。今度は逆に私の方が得意げに続けた。
 「分かるわよ。あんた、短い時間の間に、バーテンさん達に何度呼ばれて叱られてるの? 他にももっと分かるわよ。
 他のホストを"先輩"付きで呼んじゃって、で、その人達には"新人"って呼ばれて。バレバレだわ。ここで一番下っ端の、駆け出しのホスト君なんでしょ。亮、クンは。
 どう? 私のチェックは。」
 指輪だらけの形のいい指が、金髪の中に潜る。参ったな、と言う感じで掻き上げて、上目遣いに私を見る。
 私、お子様はタイプじゃない。
 幾ら可愛かろうが、口が上手だろうが、お子様に心は動かされない。大体気まぐれで残酷と相場が決まっているから。
 だと言うのに、何故、自分のタイプでもないこの子に声を掛けたんだろう。いかにもお子様で、気まぐれが服着ているみたいな子なのに。店に入ってからずっと私が引きずっていた、そんな小さな疑問が、その瞬間ちょっと解けた。
 嫌いなのは、目。惹かれたのも、やはりその、目、だ。
 「カンペキ。亮って呼んでよおネーさん。」
 夜の中で、平気で昼の光を宿している開けっぴろげな勝ち気な瞳。
 夜に溺れて、疲れ果てて泳ぎ着いた小さなダグボートだった。暗闇の中に浮かぶちっぽけな停留所だった筈だ。ちょっと休んで、直ぐ次のバスに乗る、それだけの場所の筈なのに。私はその片隅に、ぽつんと点った昼の光に吸い寄せられている。
 まるで死にかけの蛾みたいに、その灯りに抗う事も出来ずに吸い寄せられている。
 新米ホストの苦笑混じりの呟きが耳に届く。私は妙に素直な気持ちで、彼の声に頷いていた。

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