【こころ】

 
 「今、何と言った、敏。」
 確かめずには居られなかった。
 自分の心の声を、自分はこの耳で今、聞いたと思った。
 幻に違いない。聞き間違いに違いない。
 そうだ。青年の声が、唐突に草薙の心を語る訳などはない。彼の考えを、彼の苦悶を、青年の声が音にしてこの世に吐き出す謂われなど無い。そんな事は有る筈がないのだ。

 俺は、くずなのに。人間のくずなのに長らえている。生きるべき命の礎の上に生かされている。生きるべきではない命が。くずのように価値のない命が、長らえているのだ。

 草薙の感傷だ。草薙だけの、生きるべきではない命の愚痴だ。その筈だ。だと言うのに。
 青年は口にしたのだ。幻ではない。聞き間違いではない。確かに青年はその口で、俺はくずかと聞いたのだ。
 自分がくずであると思っている草薙に対して。

 青年は草薙の問いには答えなかった。ただじっと固まったように俯いたまま、自分の手を見詰めている。
 裏返して、元に戻して。大きな掌を見詰めている。不意に瞳が持ち上がった。
 草薙にぐいと掌を突き出して見せる。そのまま、視線は彼自身の手を追う。その奥にいる草薙に気付かぬように、じっと手を見詰める青年の瞳を、草薙は追った。
 「これは、戦争がくれた贈り物だ。こんな物。………何にもなりゃしない。」
 彼が突き出して見せたのは、大きな、分厚い掌だった。
 鎌を持っても、湯飲みを持っても、それが軽く小さく見える大きな手だった。労務者の手のようだと、かつて青年が呟いていたのを思い出す。
 「俺は、やる気のある兵隊じゃなかった。5年も戦争に行っていたけど、最低限しかやる事はやらなかった。偉そうにふんぞり返った上官に、あれやれこれやれと命令されるのが馬鹿らしかったからだ。
 新入りに威張り散らすのも気に入らなかった。襟章を破いてやったら営倉に入れられた。目を付けられて、牛馬みたいに荷物運びはさせられるわ、5年いて上等兵止まりなんて俺くらいだ。
 でもそれで全然構わなかった。」
 殆ど聞こえないような声が、ぽつりぽつりと語り出すのは、怒りという感情だった。荒い息を誤魔化すように、なだめるように、何度も息を呑んでは語り続ける。
 自分自身に向けての確認なのだと草薙は思った。
 「満州で、親父が死んだと聞いた。熊本で、お袋の死を知った。どうする事も出来なかった。戦争で初めて来た内地で、俺は身動きも取れなかった。
 くだらねぇ、戦争なんて。俺は誰のためにこんなトコ居るんだ。何でこんなトコに縛られているんだ。」(※5)
 生まれは山東省の青島だと言っていた。写真館の息子で、写真に関する特殊技能を買われて、陸軍航空隊から特攻隊まで、ずっと写真班にいたと言っていた。
 日本に生まれ日本に育った、岡本のような純粋な日本産日本人と青年とは、自ずと価値観も、日本に対する思い入れも違うだろう。特攻まがいの部署に追い込まれ、それでも従容としてその状況を受け入れた岡本とは、青年の思いは全く違う。
 岡本の悟り切った諦めと、青年の悟れぬ怒り。二つの食い違う感情は、どちらも死から逃れられぬ戦争に放り込まれる人間としては自然な感情だ。自らの意志ではなく、国家の意思で行われるのが戦争なら、その運命も国家が決める事なのだ。彼らではない。
 意思に関わらず運命を決められる、生きた駒。怒りも諦めも哀惜も、皆、当然の物である。
 草薙は、青年を勇猛果敢な兵士だと思いこんでいた。戦闘的なそのたたずまいから、そう信じ込んでいたのだ。誤解されやすいその外見から。
 「戦争が終わったと聞いた時、腹が立った。たった一枚のはがきで、俺を五年間も好き勝手に使いやがって、結果はこれか。そう腹が立った。
 だがせいせいもした。ざまをみろ。負けやがって。ざまをみろ、俺は自由だ。俺はもう、こんな所にいる必要はないんだ。生き延びた。生き延びたんだ。」
 掌を見詰めたままの瞳に、裸電球の黄色い光が跳ね返る。髪と額の影の中で、両の瞳が瞬いていた。
 

 岡本がいつか語った話を思い出す。
 夕焼けの赤い空は好きじゃない。岡本はそう言ったのだ。
 つるべ落としに、瞬く間に藍色になる空を見詰めて、夕焼けの赤色は綺麗だが嫌いだと、岡本は言った。
 まだ秋の初めの頃。東宝の従業員争議の所為で家に居た岡本が、庭でぽつんと語った日の事を、草薙はまざまざと思い出す。
 四月二十九日、天長節の日。豊橋駅の近くだったと岡本は言う。
 B29の落としていった爆弾で、その場に集まっていた候補生の殆どが即死した。岡本は爆風の中で幸いにして目を覚ましたが、辺りは地獄絵図だった。
 目の前に、片手片足を吹き飛ばされ、残った片手ではみ出した腸を腹の中に押し戻している戦友が居た。
 「くそっ。Bの奴め、Bの奴め!」
 呆然と情景を見ている彼の耳の後ろから、鋭い呼び声が響いた。岡本候補生、岡本!!
 振り返ったそこには赤い空があった。
 いや、空が赤かったのではない。戦友の首から、何か赤い物が吹き出して、空を赤く染めていただけだ。それが動脈血である事は、直ぐに分かった。
 胡座をかいたまま「血を止めてくれ!」と叫ぶ友の元に駆け寄り、夢中で首を押さえた。四つの手で、吹き出す血を必死に押さえた。だが、直ぐだったのだ。
 腑を押し込んでいた手も、首を押さえた二つの手も、直ぐに動かなくなった。二人とも死んだのだ。
 その日の爆撃で生き残った特甲幹は僅か三名。空は妙に赤く見えた。
 それが本当の空の色だったのか、それとも血の色だったのか、爆風にやられて霞んだ目の所為だったのか、今となっては全く分からない。
 ただそれから、岡本は夕焼けの赤い空は嫌いになった。色が綺麗であればある程、嫌いになった。
 

 「解散、と言われた。部隊の証拠を一通り焼き払って、残務整理が終わった後、お払い箱になって気が付いた。
 俺に帰る場所などない。日本に知人など居ない。俺は、…どこに行けば良いんだ。」(※6)
 略式背嚢、雑嚢、夏衣袴、冬衣袴、襦袢、袴下、雨外被、携帯天蓋、飯盒、水筒、軍靴、軍足、略帽……そうした復員兵一式の他、青年が貰ったのは毛布二枚だけだった。
 飢えをしのげる物は、何もない。
 あてもなく、兎に角小倉を出た。背に担いだ荷物が妙に重くて、道路の脇にしゃがみ込んだ。もう立てない気がしてうなだれたまま、とどろく爆音に面を上げると、丸い鼻面のコルセアが、馬鹿にするように目前を過ぎて行った。
 生き延びた。生きなければ。死んでたまるか。
 何でもした。闇市の運び屋や土方、金になる事は何でもせねば生き延びられなかった。その日その日をやり過ごしながら、いつか、ひたすらに身内の消息を追う事が慰めになっていた。
 半月ほども必死で探したか、やっと弟の芳郎の行方だけが分かった。9年ぶりに会い、お互い再開を心から喜んだが、そのまま別れた。互いが自分の事で手一杯で、寄り添うには余裕がなさ過ぎたのだ。ようとして行方の知れない妹が、自分達を探し出して帰って来る迄に、何とか経済的に立ち直ろうと約束して別れた。
 勿論、その目処などは立つ筈もなく。
 ―― そうした頃に東宝に辿り着いた。

 先輩の大山 年治が東宝にいた為、彼を頼って東宝に来た。カメラマンを希望したが空きは無く、大山の薦めるままにニューフェイスを受けた。俳優になる気などはさらさら無かったが、仕方がなかった。選択の余地はなかったのだ。辛くも合格したのは、天の助けだとは実際思った。
 東宝と言う会社に潜り込む事が出来さえすれば、活路は開けるかも知れぬ。
 真っ直ぐに絶望へ延びている一本道に、細いながらも別の道が生まれるかも知れぬ。三船はそれに縋り付いた。
 縋り付くしか手がなかったのだ。
 実家が写真館である青年としては、この世界そのものに興味がなかった訳ではない。実家の店の名は「スター写真館」で有ったし、青島の平和な時代には随分と映画館に通い詰めたものだ。
 銀幕の世界に酔いしれ、楽しんだのはそれ程昔の事ではない。
 側から見れば、「スター写真館」の息子が銀幕の世界に流れ込むのは、むしろ自然な事と見えたかも知れぬ。
 だが違う。
 それは断じて違うのだ。
 「敏郎……?」
 掌を見詰めたままだった瞳が、振り払うように外される。

 男の癖にツラで飯を食うのは嫌いだ。

 青年がかつて、まじめくさって言っていた。聞いた時は吹き出しそうになったものだ。
 古くさい。今時はやらない。そんな"男の空意地"など、捨ててしまえば良い。つまらないだけの、何の足しにもならぬプライドだ。
 「ただの……」
 掻き消えそうな呟きと共に、大きな掌をぎゅっと握り込む。
 「こんなの、ただの河原乞食の真似事だっ。
 生き延びた。必死に生きようとしがみついて来た。……乞食の真似事するためにか!?」
 草薙は息を呑んだ。


 


 
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【この物語はフィクションです。実在する個人/団体名をお借りしておりますが、事実とは無関係です。】
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