小一時間もせぬ内に、岡本はまた会社の方へ戻って行った。
彼の言っていた「フォース助監督」の仕事は、もう始まっているのだろう。
草薙は、気を付けて行けよ、と岡本を送り出して、作品の整理に掛かった。
賄いも帰り、一人きりの家に、不意に静かな冬の夜が降り下りる。岡本の姿に、いつしか彼はもう一人の自分を重ね見ていた。
彼は熱くなれる物を見つけた自分かも知れぬ。
そう思って苦笑する。あり得ない事だ。
熱くなれる物を見つけた自分なぞ、自分ではないだろう。したい事もぼんやりとしか掴めず、したい事など何も出来ず、せねばならぬ事など更に出来ず、ただ唯々諾々と長らえて来た自分には、熱くなれる物など有る筈もないのだ。
比べる方が間違っている。岡本は戦時下に東宝の門を叩いた青年である。常から戦争以外の目標を持っていた人間なのだ。
軍国主義にひた走らねばならなかった当時の日本国民の中に置いて、これもまた多少珍しい性質の青年かも知れぬ。
出征したら確実に死ぬだろう。自分の生は、死ぬまでの僅かな猶予期間にしかない。ならばその死迄の間に、一本でも多くの映画を見よう。いっそ作りもしよう。
そう決意して応徴した青年は、死の足下に傅きながら、彼自身が熱くなれる物を既にその胸に抱いていたのだ。
岡本は第一種乙種合格。
近眼と痔、そして学問成績が悪い為に海軍試験に落ち、陸軍の特別甲種幹部候補生に採用された。何人もの戦友が目の前で死んでいく中、辛くも生き残った命だという。
死に神が目の前まで来て、鎌を振り上げたまま遠ざかっていった。その時岡本の胸に去来したのは、助監督に戻れるかも知れないと言う、ぼんやりとした遠い歓喜だったと言う。
草薙は溜息を吐いた。
死に神が去った後、直ぐにそれを喜べる精神は、何と健全なのだろう。熱くなれる物をしっかりと胸に抱いた精神は、何と強靱なのだろう。
熱くなれる物。生き甲斐と言う名の、自分には持ち得ぬ宝。
戦争と言う、死に尤も近い場所にいた岡本は、きちんと生きる糧を持っていた。死を免れたら、生きる事に邁進出来るエネルギーを既に持っていた。そうした生きるべき命の多くが、捧げられたのが戦争なのだ。だが自分は。
役立たずは、生きる目的も持たぬままに生きている。
生きる準備が出来ぬまま、生かされている。
最近では、笑う事も覚えた。役に立たぬ人間なのに。人間のくずだと言うのに。
がたがた。
物音に思考をちぎられて息を呑む。耳を澄ました時には、既に音は消えていた。
勝手口の方向だった。幾ら耳を済ましても次の音がしないので、草薙は自室を出て廊下を渡った。
電球の切れた暗い廊下の突き当たり。寒々とした土間の台所。勝手口はその脇にある。覗き込む視界に、きっちりと閉じられた勝手口の扉が入った。
誰もいない筈の闇の中に、何かの存在を感じた。行き帰りの激しい呼吸。声を出さない呻きにも似て、繰り返される荒い呼吸が存在を主張していた。ゆっくりと暗さに慣れていく目に、幅二尺程の上がり框の片隅に蹲る大きな背中が映った。
「敏………?」
広い身幅に、そっと尋ねる。ぴくりと反応した背中は、やや暫く考えた後、ゆっくりと振り返る。つい、その仕種に苦笑がこぼれた。
「……また何かしたんだろ。それで今度は玄関ではなく、裏口からお帰りか。
馬鹿だね。こっちの方が僕の部屋に近いんだぞ。ばれるよ。」
明るい口調の草薙の言葉に、青年ははっきり表情を歪めて顔を逸らす。
おや、と思った。
意外な反応だった。仏頂面ではあるものの、表現が不器用なだけで他人に気を遣い過ぎる嫌いが有る青年が、あからさまな拒絶を表に出すのは初めてである。
どうしたんだ、敏? そう聞きたかったが躊躇われた。他愛もない筈の質問なのに、何故か口に出す事が出来なかった。
去りかねて、台所の灯りをつける。廊下側に据えられた裸電球は、ぱちんと言う小さな返事と共に、黄色い光を辺りに振りまいた。
天井から20cmほどのリード線の先にぶら下がる裸電球が揺れる。一緒に光も揺れ動いて、辺りの情景の色や影をゆらゆらと移り変える。
年を経、あちこちにすりむけ傷を残す飴色の床。その上に蹲ったままの逞しい背中が、その揺れの中に浮かび上がる。やや俯いたまま、動かぬ青年の背の凹凸を黄色い光が浮き彫りにした。
先日とは違っていた。
争いの痕は何処にも見られ無かった。黒っぽい装いの服にほころびは無く、引きずった泥の跡も、乱れた着衣もそこにはなかった。その背に有るのは、岡本と同じ白茶けた土と埃、それに幾ばくかの枯れた草だけ。
返事をしないのが悪意ではない事は、その背中を見ずとも容易に知れた。台所がまだ闇の中に有った時、草薙に何物かの存在を報せたのは呼吸だった。荒くてせわしない、呼吸。
黄色味を帯びた光の中で、呼吸に喘ぐ肩越しに、頬のラインが揺れていた。俯いた鼻先や顎先から、ぽたぽたと滴が伝って落ちる。
膝に手を突いたまま動けぬのも、恐らくは荒い呼吸の所為だろう。荒っぽく、手の甲で汗を拭う仕種に苦笑して、草薙は手ぬぐいを差し出した。
「君も従業員組合争議かな。まだ俳優にもなりきらない訓練生でも、従業員組合に入る物なのかな?」
振り返る事もなく、差し出された手ぬぐいを乱暴にひったくって、顔中をぐるぐると拭く。苦しげな呼吸が、そんな動きさえも微かに鈍くする。
逡巡と苛立ちが、動けぬままにそこに座っている。草薙は答えぬ青年の後ろ姿を見ながらそう思った。
何から来る感情なのか、尋ねずに湯飲みに水を注いで突き出す。青年は素直に受け取って、ぐいと呷った。一口喉に通し、荒い呼吸に咳込む。
湯飲みが土間に叩き付けられ、陶器の割れる鈍い音が土間の上に淀んだ。
「俺は…!」
噛み付くような声と共に、いつもの逡巡の表情が持ち上がった。驚いて青年を見つめる草薙と、ほんの瞬間視線を合わせて俯く。言葉にならぬ青年の煩悶だけが、はっきりと伝わった。
ごつい掌が、青年の膝の上を動いていた。拳にして叩き付けられ、握られ、また膝の上で開かれる。正直な掌だと思った。
草薙は土間に降りた。やかんを火に掛けて茶の入った缶を取り出す。草薙の背後に蹲る荒い息の存在に、返事を期待せずに声を掛けた。
「ああそうだ。お茶っ葉が手に入ったんだ。特別にお茶を入れる。敏もちょっとつき合ってくれ。」
東宝第一期ニューフェイス募集は五月三日から始まった。テストは六月二十九日。確かにこの家に岡本が青年を連れて来たのは初夏だった。
珍しさも手伝って、応募者は大勢居たと聞く。四十八人がテストに受かって訓練生として入ったのだと岡本が言っていた。
それから早くも四ヶ月余り。訓練生は大分減った。ニューフェイス合格生にも諸処の事情がある。テストに受かったからと言って、それは「俳優」と言う将来が約束されたと言う訳ではないのだ。
実際、草薙の背後に蹲る青年からしてそうだ。
彼はカメラマンを志望して東宝にやって来たのだ。東宝のカメラマンの一人、大山 年治が三船の先輩に当たるのだとは、岡本から聞いた。つまり三船は、先輩を頼って東宝に転がり込んで来た避難民なのだ。
しかし、そこにも青年の居場所はなかった。カメラマンに空きは無く、大山に勧められるままに、仕方なく席が空くまでの臨時の手段として、ニューフェイスに飛び込んだ。決して俳優を夢見た訳ではない。ニューフェイスは、カメラマンになる為の臨時の避難場所に過ぎぬのだ。
やかんがしゅんしゅん、と音を立てた。
火から下ろして急須を持ち寄る。缶の蓋一分ほどのくき茶を急須に入れて、そこに湯を注ぐ。鼻先に熱い湯気が上がった。
「俺は……」
背後の呻きが、湯気の彼方に聞こえた。
「俺は。………か。」
良く聞こえずに、急須から顔を上げる。耳をかすった言葉を反芻しようとした先に、青年が大きく息を吸い込んだ。
「俺は、人間のクズかッ……!?」
慌ててやかんを持つ手を止める。急須の縁からそれた湯が、テーブルの上に湯だまりを作った。
振り返る。両手を膝に食い込ませたまま俯く青年の姿が有った。
「何だと………!?」