「……それ、決まったのいつだ。」
 無意識に呟いた言葉に、黒づくめの青年は軽く腕を組んだ。考えています、と言う意思表示をして首を振る。
 「決まったっちゅうかですね、とうに決定の物を引き延ばしていたの三船ちゃん本人です。」
 聞く事が一々意外で分からない。
 いや違う。意外な事実が幾つも重なって、徐々に意外ではない事実に変化して行くのに、着いていけないのだ。次々に放り投げられる事実に、対応できないのだ。
 「引き延ばした……。」
 「ええ。こう言う騒動の最中ですからね、尚の事制作関係のニュースは有った方が刺激になる。
 でも、粗方大御所は新東宝の方に抜けちゃってますから、谷口さんが…えっと、谷口千吉さんって言う監督さんがデビューする事になって、その作品の主役級俳優に三船ちゃんを据えようと相当口説いてたんですよ。」
 凄いではないか。
 普通はそれが大方の感想だろう。映画を知らない一般人からしても、口をついて出る言葉はそれしかない。だが、それを引き延ばす青年の気持ちは何なのか。
 一つの結論に突き当たる。
 「男がツラで飯を食うのは嫌だ。……?」
 そ!! 岡本が大きく相づちを打った。
 「役が欲しい人間が五十人からいるって言うのに、三船ちゃんはそう言う事言いますからね。
 で、あんまり強情なんで谷口さんも躍起になって追い回すし、皆ピリピリしてるし。何だか割と不穏なムードがこう……流れてるっちゅうか何ちゅうか…です。」
 胸の中で疑問が氷解して行く。
 意外だった事実が、かちかちと音を立てて合わさり、成る程と思える一つの事柄に変化して行く。全貌を見渡せるようになって、草薙は耐えかねて吹き出した。

 ……あんた、おしゃべりじゃ無いよな。よけいな事は言いっこなしだ。

 成る程、である。
 

 「何ですか。三船ちゃん、何か言ってましたか。」
 「いや、そうじゃない。……で、どんな役なんだ? 敏の役。」
 「それがね、三船ちゃんにぴったりの役なんですよ。何だと思います?」
 さあ、と口ごもったまま考える。ぴったりの役と言うなら復員兵の役だろうか。労務者の役だろうか。それともずばり、ヤクザの役だろうか。草薙の思案顔に痺れを切らした岡本は人差し指を大きく突き出して、何と!!と、大げさに叫んでから声を潜めた。
 「強盗殺人犯役。」
 「凄い。ぴったりだ。」
 二人で声を出して笑う。
 以前の自分なら考えられぬ事。ほんの半年前の自分からは考えられないこの反応に、自分は順応しつつある。変わっているのだ、世の中が。
 ……そして自分も。
 「敏はそんなに恨まれてるかい。」
 草薙には理解できぬ筈の、違う世代と世界に住む筈の彼ら二人。だが、例え交わる事が無くとも、彼らの世界は草薙の直ぐ横にある。不思議な親近感と連帯感が胸の奥を満たしていた。
 自分だけが世の中に置いていかれているのではないと言う、妙な予感。岡本が再び腕を組んだ。
 「恨まれてる…ってのとは違います。馴染めないと言うか……異質と言うか。
 僕も、この世界に戻って役者を間近に見てて、少しづつ分かって来ましたけど、三船ちゃんって確かに異質です。変わってます。何て言うのか、こう、何かがこう……来るんですよね。
 ああ言うツラでしょ。仏頂面だし取っつき難いし、撮影班では滅茶苦茶評判悪いです。恐いから近づくな、って皆言うし、谷口さんが口説けば口説くほど、あからさまに皆嫌な顔してます。
 あんなヤクザを使うな。折角のデビュー作を駄目にする気か。これが粗方の反応です。
 まあ、三船ちゃんもやる気が無いですし。講義を受けてるだけのそんな奴、監督が必死で口説いているんですよ。そんなの、他の必死な俳優希望者や、諸先輩から見て気分良い訳無いじゃないですか。
 試しの脚本渡されて、これを言えって言われた時、一番滅茶苦茶なの三船ちゃん。真っ直ぐ歩けないし、演技だか何だか分からないし。でもね。」
 岡本が大きく深呼吸をする。草薙は岡本を振り返った。
 「全員の演技を見終わって、誰が頭に残ってるかって言うと、……やっぱり三船ちゃんなんですよ。
 何ですかね〜。あのギラギラが目に残っちゃうんですよね。」

 成る程。
 今日何度目かのつぶやきを胸の中で繰り返して、草薙は頷いた。
 初めて三船と言う存在を知った八ヶ月前を思い出す。
 何も言わず、ずかずかと部屋に入って来ただけで圧倒された彼の存在感。睨むように向けられた瞳の輝き。その瞳に惹き込まれるようにして、しばし見詰め入っていた自分自身を。
 豹のような瞳だ。そう思った。月のような冷えた光だ。そうとも思った。どちらにしろ。
 自分が観客なら、瞬時にしてあの時、あの俳優に魅了されていたのだ。
 「ニューフェイス試験の時、協議にやたら時間が掛かったんですよ。原因は三船ちゃん。
 審査員に楯突くわ、ふんぞり返って席について、辺りを睥睨するわ。態度が悪いから落とすと言う組合側に、山さん……えー、山本嘉次郎監督が、あいつは役者としての才能があるって食い付いて、投票し直しで補欠として入ったんですよ。
 キャメラマンになりたいから、あんなの意味無いんだって、三船ちゃん側の理屈は後から聞きました。今もキャメラマンの席が空くのを待っているだけで、俳優になんかならないって、彼の理屈はそうですけど。
 でも、俺から言わせれば、これって三船ちゃんの一人勝ちでしょ。なれば良いんですよ、素直に俳優に。
 それをあの人、本当、分かってないから。」
 
 青年がボロボロになって帰って来た理由が良く分かった。青年自身にはもっとクリアに分かっている。分かっていても、どうしようもない。恐らく青年の考えはそんな所なのだろう。
 余計な事は言いっこなし。
 誰に対してなのかは、未だ良く分からないが、岡本に対して、気を遣ったのかもしれぬ。草薙は苦笑を禁じ得なかった。
 不思議な事に、あの不貞腐れた青年は、この、黒ずくめの衣装を好む岡本と仲が良かった。お互いに、喜八っちゃん、三船ちゃん、とちゃん付けで呼び合い、何処に一緒に出かけると言うわけでもないが、帰ってくると良くじゃれ合っているように見えた。口数の極端に少ない青年が、岡本とは良く話している。
 「良い友達か、岡本。」
 「良い奴ですけどねぇ。」
 外見がああだから。困ったように、岡本は笑った。
 

 賄いの千絵が、ぱたぱたと鍋を持って居間に入る。
 岡本は姿を見せない青年を置いて、さっさと食卓に付いた。草薙の心づくしで、仕入れた食材を千絵に調理させたのだ。決して豪華で充分な食事とは言えぬが、それでも腹が一杯になる程度の量は確保出来ている。
 草薙相手に東宝のこれから行くべき道の何たるかを滔々と語りながら、岡本は口に入り切れない量の食物を頬張る。白い飯は夢のまた夢だが、出された皿の中身をぺろりと胃に詰め込むと、満足そうに畳に寝転がる。はー、食った食ったと、丸くなった腹をさする。草薙は小さく笑った。
 岡本と三船。正反対のこの二人が何故合うのか、その理由が分かる気がすると草薙は思う。
 外見は小柄で細っこいが、活動的でおおらかな岡本と、外見は剛胆で逞しいが、実は繊細で表現の下手な三船。人柄も、人の受ける印象もまるで違う点が、却って互いに気を遣わずに済むのだろう。
 どこか、相手に踏み込まない所が似ていた。
 必要以上に近づく事も、踏み込む事もなく、だが離れず。ぎりぎり温度が伝わる程の距離で、互いをそれとなく気遣う、不思議な距離だと草薙は思った。
 いつ、どちらが消えても、自分に傷の付かぬ距離。そう見える。
 自らもその距離を保って他人とつき合っている草薙は、また一つ、不思議な親近感と連帯感を強めるのだ。
 世の中は確実に変化している。破壊から、復興へと。
 そしてそこに生きる自らも変化している。変化しているのだ。
 戦争が終わって二回目の冬の初め。
 この家に帰って来たあの日のように、垣根で虎落笛の音がひゅうと鳴いた。


 


 
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【この物語はフィクションです。実在する個人/団体名をお借りしておりますが、事実とは無関係です。】
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