□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 古い物に新しい物が負けるなどと言う事はまず無い。
 余程由緒のある宝か、失われてしまった技術を施された骨董品なら別だが、二十年前に市場に上った電化製品と、現在の電化製品を比べればその理由は明らかだ。新しいと言う事は進化だ。進化はそれだけで価値であり、価値は万人にとって共通する物なのだ。
 年を取れば取るほど、人間も古くなる。頑なになる。衰えて行く。進化する柔軟性も無ければ、進化を受け止める許容量など更に無いのだ。古い価値観は変らない、埃を被った沽券は捨てられない。
 「俺、変れない」
 静かな声が言う。背の高さから僅かに見下ろす楢岡の視線を真っ直ぐに受け止めたまま、はっきりと発音する。楢岡は何も反応しなかった。
 「俺の事は俺が知ってるだけで良いんだ。それで充分だ。君に何でもかんでも見せられる訳無いし、その必要も無いだろ。俺はこれ以上踏み込まれたくない。君にも踏み込まない。だから君も距離を持って…」
 無理。思いの他はっきりした声が応える。長沢はそっと唇を引き絞った。
 「それは、無理。踏み込まないなんて俺には出来ない。もっと近付きたい。もっと知りたい。距離を置くのなんて、そんな事不可能。分ってる癖に」
 言いながら、男の顔を見つめる。
 クールでドライだと、取り付く島が無いと、かつて一言も打ち明けられずに思い悩んだ顔。今はその静かな両の目も、以前とは違って見えた。度の強いレンズの所為で分断される瞳は大きくて、完璧に澄ましている。だが実は、その見かけと違って取り付く島も、入り江もあるのだ。
 「…だったら、やめた方が良い。俺と付き合うのなんて。君の言う通り、無理、だ」
 「…な。嫌われたかって思った?嫌われるかもって気になった?それで昨日ずーっと気にしてた?」
 静かな目が持ち上がる。正直だ。
 「やめた方が良いよ、楢岡くん。俺は君には合わないよ。もっと…」
 「お別れ宣言?嫌だからケツまくって逃げるって?尻尾を巻くって?それ言うならもっと強気で言えよ。せめてその泣きそうな目、止めてからどうぞ。説得力無い」
 クールな表情はそこには無い。済ましているが不安げで、伺うような色は芝居ではない。そっと頬に触れるただけで、眉を顰めて飛び退く。全身の毛を恐怖に逆立てる子猫のようだ。顎をつかむと慌てて払う。それでも掴むと、腕に爪を立てる。まるっきり脅えた子猫だ。
 「やめろよ」
 「やめなかったら?」
 「放せって」
 「答えたら放してあげる。なぁ、俺に嫌われたかと思って一晩気になってたの?」
 静かな瞳に火が点る。眉間に深い皺が寄り、瞳に険が走る。こんな表情は十年来、見た事が無かった。本当に最近だ。正月の小旅行以来、本当に様々な表情を見せてくれるようになった。以前は想像も出来なかった複雑な表情を、あけすけの瞳を、本人は恐らくは意識も無く、晒してくれるようになった。この男は。
 「どこまで自惚れてんだよ!悪かったかなと思って気になっただけだろ、どんな自信家っ・」
 「へへん、ちょっと前までは俺をパシリに使ったって気にもしなかったKちゃんがさ。俺見る時、空気みたいに見てたあんたがさ。ずーっと気にしてたって聞いて自信家も何も無いや。天地ひっくり返るくらいの一大事だろ。自惚れ上等、天まで昇れだ。こら」
 顔を掴む。逃れられぬように壁に押さえつける。 
 挑むように睨み付けてくる瞳は、本気で怒っているのだと知れる。では一体何に怒っていると言うのだ?
 「キスするぞ」
 「してみろ。食いちぎってやる」
 思わず、剥き出しの敵意に口笛を吹く。澄ましている顔が。クールだと思っていた男が嘘のようだ。ドライで冷静で客の凡てを掌の上で転がし、鷲津を煙に撒いた男が、脅えて怒って、その癖強く求めている。分り辛いが分ってしまえば容易い物だ。
 この男が怒って居るのは、自らの弱さに対してだ。小さな言葉に揺らぐ自らの脆さ、簡単に開きつつある自らの心の柔らかさに怒っているのだ。一体それはどう言った種類の完璧主義なのだ。人間など、誰もが脆い。誰もが心の内は柔らかい。がっちりとガードし続けた時が長ければ長い程、刺激には敏感になるものなのに。鋼鉄の心を求めるなど、土台、無理と言う物だ。
 顎をつかんだまま鼻の頭を啄ばむ。鼻筋を辿ってこめかみに、顎に、頬に唇を滑らす。
 「もう。やめろって!」
 「食いちぎるんだろ?待ってろ。まだそこまで行ってない」
 「やめっ…」
 唇を啄ばむ。触れるだけのキスを繰り返す。険を帯びた瞳が楢岡を睨みつけ、伏せられる。抗う腕が、緩やかに力を抜く。楢岡は眼鏡を引き抜いて、瞼に唇を押し当てた。眼球のカーブを瞼の上からなぞって目尻にキスをする。ゆっくりと唇を下ろす。
 髭を辿って唇に辿り着き、ゆっくりと唇に舌を這わせ、口の中に押し入る。長沢の歯が楢岡の舌を上下から挟んで捕らえ、力を込めかけて諦める。両腕が楢岡の頭を抱き寄せた。熱い息が漏れて、長沢の口が楢岡の舌を包み込む。
 大きな掌が顎から外されて背に回った。楢岡の両腕が背中と腰を抱き締めて細い身体を引き寄せる。引き寄せられて、長沢はしがみ付いた。スーツの上から両腕で筋肉の流れを追う。脂肪を乗せた実用的な筋肉は、しなやかで力強い。自らには持ち合わせの無い物だ。両手で辿ってしがみ付く。
 何の意味があるのだ。この付き合いに。何も生みはしないのに。なのに。この充足感が今は欲しい。今はこれを手放したくない。
 楢岡の顔を掴んで、厚みの有る唇に軽く歯を立てる。吸い寄せて抱きつく。
 「なぁKちゃん。俺らお互いの事、まだ何にも分かって無いだろ。俺はあんたに踏み込みたくてしょうがない。これでも必死にバランス取ろうとしてるんだ。多分、これからだってあんたの嫌な事も聞くよ。あんたその度尻尾巻くのかよ?もっと簡単な方法があるだろ?その良く回る頭で考えてみ」
 喋ろうとする楢岡の口を塞ぐ。呼吸を求める口許に絡みつく。大きな掌が長沢の頬を捉えた。
 「嫌だって、その度俺に言ってみ。口が有るんだ、言えるだろ。俺だって聞く耳くらいあるぞ」
 瞳が間近から楢岡を見据える。先程までの冷静な瞳ではない。そこに有るのははっきりと欲情した瞳だった。
 聞いてるか、聞こえてるか?そう聞く間もなかった。
 「……やろ。やりたい。」
 楢岡の手を、長沢が強引に自身に導く。しっかりと触らせて、自身は楢岡のベルトに手をかける。楢岡の方が身を固めた。
 「……全く」
 この男には、参る。見た事の無い顔ばかり見せ付ける。もっと、見たい。
 
 それからの一時間余り。睦事と言うには乱暴で、喧嘩と言うには甘い時が過ぎた。互いにどちらか良く分からない。ただ、攻撃していたのは長沢で、楢岡は殆ど防御に回っていたと言うのだけは確かだ。
 自ら事を始めた長沢は始終攻撃的で、強引に楢岡の衣服を剥ぐと素肌に噛み付いた。爪を立てて身体を押さえつけ、楢岡の物に歯を立て、まだ開かれてもいない内から深く求めた。楢岡が慌ててフォローしたから良い物の、慣れぬ相手では怪我をする。
 険のある瞳で睨みつけたまま、深い繋がりを求めて、楢岡に跨る。乱暴に飲み込もうとするのを支えると、その行為を拒否される。腹に爪を立てて拒まれる。それでも最奥まで繋がると、今度は全身で求めて来る。身体を叩きつけて、楢岡を体の奥に呑み込み、もっと、と嬌声を上げる。
 当然ながら、楢岡は合意の下でのSEXしか、した事は無い。プレイでは色々経験して来たが、こんなに翻弄されるSEXなど憶えに無い。プレイではないのだ。相手は本気で求めた上に拒否し、また求めたりして来るのだ。情緒不安定な処女を相手にする方が、まだ安定感が有る。怒りの目で睨み付けられては甘い声で縋り付かれ、爪を立てた場所を蕩けるような顔で舐められる。
 最初は翻弄されたが、二十分も経つと、それが刺激に変った。押さえつけて深い注挿を繰り返している時、畜生と言った長沢の顔が快感に上気していて、征服感に酔った。ことさら攻め立てて、悪口が喘ぎになるのを楽しんだ。
 喧嘩なのか、SEXなのか良く分からない。アドレナリンの量も生傷の数も変らない。だが、快感の量は喧嘩とは段違いだ。ぶつかり合って、もつれ合ったまま快感に震える。繋げたまま、熱が去るのを待つ。
 激しいやりとりの余韻の後、動けずに布団に沈む。一月だと言うのに、暖房もつけていなかった事に初めて気付いて、楢岡はリモコンを手に取った。思えば随分とこの部屋にも慣れた物だ。スイッチを入れて枕元に転がし、隣に転がる人を覗き込む。
 窓から漏れ入る光が、長沢を薄闇の中に描き出す。窓際の楢岡の方を向いている細い身体の線と、削げた頬、鼻筋を光が舐めて過ぎる。寒いだろうと布団を掛けると、伸びた前髪の下から両の瞳が楢岡を見ていた。いつになく暗い、縋りつくような瞳。楢岡は溜息をついた。
 半端に髪の伸びた頭を抱え込む。まだ激しい呼吸に震える頭を胸の中に抱き締める。素直に両腕を絡めてくるのが、なんとも愛おしくて憎らしい。
 「……本当にあんたってば性悪」
 短い呼気。安堵の溜息にも聞こえた。
 「喧嘩する気はないんだ。君には色々悪いと思ってる。でも俺は…変れない」
 全く。何度繰り返したか知れぬ言葉を、胸の中で繰り返す。
 頬に手をやって顔を持ち上げる。しょげた猫は今度は唸り声を上げなかった。
 「変れって言ってないよね、俺、まだ」
 「これから言うんだろ。昨日の態度で分ったよ。俺が黙ってると君は俺を嘘つき扱いだ。自分だって身分詐称してた癖に俺ばっか」
 俯いたまま呟く声は不貞腐れている。楢岡は吹き出しそうになった。
 「何で昨日言わないのさ、そーゆー事。今までずっと言ってた癖に、何で今頃口をつぐむよ。言えば良いんだよ。喧嘩だって別に、すれば良いだろーよ。その後仲直りすれば良いだけの事だろ」
 瞳が持ち上がる。恨みがましい色で、じっと楢岡を見上げてくる。こんな正直な不貞腐れ方も要求も無い物だ。
 「何だよ。喧嘩すると仲が終りだって?変れないから尻尾巻くって?やめるって?俺がKちゃん嫌いになるって?嫌気さすって?どれよ?」
 逡巡した後に全部、と言う。楢岡は思い切り溜息をついた。
 「馬鹿じゃねーのあんた?子供かよ」
 むっとした表情で俯くので、頬から手を外してやる。好きなだけ不貞腐れるが良いのだ。
 随分と八つ当たりの攻撃を受けた。手の甲も背中も、長沢の立てた爪で引っかき傷だらけだ。脇腹と上腕部にはばっちり歯形がついているし、おまけにこの男は、大事な場所にも歯を立てたのであるから呆れる。自らの感情と折り合いがつかなくてやった事にしても、どうにもこうにも子供っぽ過ぎる。幾ら惚れた弱みが有るとは言え、長沢の方が年上なのだ。こんな八つ当たりは有り得ない。
 これは反省させるべきだ。不貞腐れている年上の恋人に、ここは少しきつい説教をすべきだ。腕を組んで考える。楢岡の生活安全課時代の主な仕事は、青少年への説教である。説教など瞬時に何通りも思いつくのだ。
 口を開けたところで、意思が挫けた。縋りつくような目で何度も変れないから、と言う心など見え透いている。目端の利く男なのに、自らの感情には鈍感で融通が利かないのが分っているから、その目を見て挫けた。しみじみ思う。俺はこの人には、とことん弱い。
 「俺は変れなんて言ってないし、言うつもりも無い。言ってるのはKちゃんだろ。俺に"聞くな、出来ないなら無理"って言ったのあんただぞ。俺じゃない。それって俺に、変れ、変われないならお別れだって言ってるんだろ。自分で言っといて俺の所為だなんて、何だその言いがかり。
 俺の答えは両方NO。俺も変れる自信ないし、あんたとも別れない。さっきの選択肢の後半もNO。少なくとも、俺からあんた嫌いになったり、嫌気さしたりする事は有り得ない。やめるなら、絶対あんたからだ。俺からはNO。
 で、どうすんの。嫌だから俺から逃げるの。尻尾巻くのかKちゃん。この根性なし」
 びっくりした目が暫し楢岡を見つめ、それからしょんぼりと目を伏せる。先程まであれほど攻撃的だった癖に、こうなるとまるでこちらが虐めているようで、全く持って性質が悪い。
 「……本当だな。俺のが言ってた。……本当だ。ごめんなさい。言いがかりです。ホント。
 そうだよな。俺ばっかじゃないよな、今更器用に変われないのは。俺がそうなら、君にだってそう言う権利有る。…うん。そうだな。ごめんな、楢岡くん」
 目を閉じて俯かれてしまうと、前髪と髭の所為で薄闇には向かぬ面相になる。身体には余り毛が無いのに、髭が濃いのは不思議だ。
 「……でもな。俺、何か有ったとして、それが公にしたくない事だったら、君にも何も言わないぞ。そんな時は、どうするんだ?喧嘩すんのか?」
 上目遣いに見上げられる。全く。こうした態度が、計算ではないのだから恐れ入る。取り敢えず胴を抱き寄せる。
 「Kちゃんが逃げないで、尻尾巻かないなら喧嘩するか話し合うかすれば良いんじゃないか?そりゃ別々に生きて来た大人ですからね。モメますよどうしたって。でもそれって普通じゃね?付き合ってれば有るだろ、そんなん普通に。どうしても嫌になったら俺を捨てれば?Kちゃんが」
 素直な腕が楢岡に巻きつく。間近から見上げる。
 「俺がか?君じゃ無くて?」
 「俺はKちゃん捨てたりしないもん。そ、あんたが」
 「……それで君は良いの?」
 先程乱暴に貫いた箇所に指を這わせる。傷つけてはいないようでほっとする。長沢がびくりと身を固めた。
 「良くは無いよ。無いけど、しょうがないでしょ。あんたが嫌つーたら嫌でしょう。俺が何と言ってもこれだもん」
 噛まれた痕を見せ付ける。長沢は肩を竦めた。
 「御免なさい……手当て、する」
 「まぁ、さ。俺、あんたに弱い。あんたに強引にどうこうって出来そうも無い。捨てられたら、そりゃしょーが無いわ。惚れた弱み、どーしよもない」
 ずい、と顔が近付く。意図が飲み込めずに首を傾げると、逡巡した口許が、思った、と呟いた。
 「ん?」
 「認める。嫌われたかと…思った。それでずっと気になってたんだ」
 全くこの男は。何だってこうも。
 頭を掬い寄せる。それより僅かに早く、長沢の方が楢岡に口付けた。熱い舌を絡ませあう。そこに有る瞳が、既に欲望に赤く染まっていておや、と思う。はあっ、と耳許で吐息が漏れた。
 「俺っ、明日総会に入り込む」
 ぎょっ、とした目が長沢を射る。後戻り出来ない所まで来ている長沢はその目に退く事なく絡みつく。首から肩に唇を這わせ、先程歯を立てた場所を両手で握る。
 「もし、君の警備範囲で騒いだら御免。逮捕なり何なりしてくれて良い。俺に遠慮は要らない。俺っ、君との仲を口外したりしない。俺は君と無関係の暴徒だよ。だから容赦しなくて良いんだ。俺はこれからきっと、君に嫌われる事幾つもする。御免な、楢岡くん。
 君に嫌われる前に俺から退くから、それまで……俺と」
 「バッ……」
 「君が、好きだ、俺」
 両手の中に包んだ楢岡に、長沢自身をこすり付ける。自らの物と共に掴んで擦り合わせながら、上目遣いの視線が縋りつく。百万言の言葉より、雄弁な瞳が縋りつく。全く。全くこの男は。俺は。
 「馬鹿」
 楢岡が長沢の頬を取る。深く口付けてとろけるような呼吸を自らの中に吸い込む。
 複雑で臆病で、卑怯者。長沢は自身をそう称した。楢岡もその通りだと思う。だが全く足りていない。
 恋人は、複雑で臆病で繊細で小狡くて。頭が良くて弁が立って媚びるのが上手くて。我儘でエロチックで子供っぽくて、不惑も後半だと言うのに庇護欲をそそる。性質の悪い、愛すべき卑怯者だ。
 全く、どうしようもない。
 

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