□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 19時を回って、店の客がそろそろと移動を始める。
 朝が早い分SOMETHING CAFEは夜も早い。夕刻を過ぎれば人の波は呑み屋かカラオケに流れる。学生街ではその傾向は更に顕著で、夕食時にCAFEで軽くすまそうと思う輩はまず居ない。食事をするなら、安くてどっかり量の多い定食屋に行くし、騒ぎたければカラオケかクラブに消える。少なくともしなびたCAFEでは有り得ない。
 更に深い時間ともなればビジネスマンごと風俗店に流れるので、飲食店云々より神田、神保町界隈から人波自体が引いてしまう。朝に重点を置いたSOMETHING CAFEの経営方針は、賢い選択といえるだろう。
 アルバイト達が帰った店内で、病み上がりの店主が翌日の仕込みにかかる。楢岡は無言でカウンタの中に入り、台布巾を幾つか固く絞った。
 「ああ、楢岡君、構わないよ。君はお客さんなんだからそんなの」
 「まだその責め方かよぅ……」
 店主が頓狂な声と、丸くなった目を向ける。楢岡の指摘に本当に驚いたらしい。
 「へっ? ……・あ。ああそうか。忘れてた。いや、今のは極普通に言ったんだよ。席についててくれよ、気を遣わずに。今日は皆にもう嫌って程気を遣って貰ったからな。もう良いんだ」
 疲れた顔で店主が笑う。そんな顔をされたら、大概の常連客はそりゃ気を遣うだろう。店主の言葉を無視して、楢岡は掃除を始めた。
 二、三組程の客を残して捌けた店内を磨く。年代を経て飴色になった木組みのテーブルを拭いて、同じ色の床を掃き、モップをかける。全て終わる頃には客の姿も消え、閉店時間も程近くなっていた。
 店主がカウンタの端に腰掛ける。苦笑交じりだった。
 「で?何が言いたいんだよ、楢岡君」
 モップをしまって、捲り上げていた袖を下ろしながら席に戻る途中だった楢岡は、店主の言葉に驚いた。決まり悪い事この上なかった。
 「いや、別に……」
 「嘘付け。夜の俺は女の為にある、が口癖で、6時には捌けてお姉ちゃんハントに行く君が、こんな時間までずるずる居るのには意味が有るんだろ。一体、何だよ」
 「ああ…入院中、見舞いに行かなかったのは、ちょっと冷たかったかな、と」
 「そんな事?たかが一週間余りの入院だぜ。気にする事じゃないだろ」
 微笑んで立ち上がり、エスプレッソマシンに向かう。サイフォンもイヴリックも片付けた後で、エスプレッソマシンだけ落としていなかったのは、楢岡のエスプレッソ好きを知っている店主の計らいだ。一日の最後に一杯だけ、店主が店主の為に淹れる珈琲を、今日はエスプレッソと決めたのだろう。…一人残った客の為に。
 楢岡はカウンタの一角に、改めて腰掛けた。いつも店主が座る一番端の席の、一つ隣に。
 「悪かったな。そのぉ…酒井先生から全部洗いざらい聞き出しちまって」
 じわじわと染み出すエスプレッソを二つのカップに注ぐ。楢岡のカップにはフォームミルクを、自分の分には何も加えず、カウンタに戻る。無言で差し出されるカップを受け取りながら、恐々見上げた店主の顔に動揺は見られなかった。いつもと同じ、静かな笑顔がそこにあった。
 「やっぱそうか。あの刑事…鷲津さん?が来た時にそうじゃないかと思ったんだ。先に調べていた生活安全課の警察官を差し置いて、あの人が話を聞きに来るのは奇妙だもんな。楢岡め、話を聞いて怖気を奮って、合わせる顔が無くて別の人間を差し向けたな。そう思ったよ。ずばりご明察だろ。……しかし、医師の守秘義務はどうなっとる」
 苦笑交じりに吐き出される言葉に頭を振る。
 「酒井先生の事は勘弁してやってよKちゃん。俺が相当頑張って聞き出したんだ。何かキナ臭かったんで、気になってさ」
 うん、と頷きながらエスプレッソを啜る髭に包まれた口許を見る。エスプレッソの正しい飲み方は、三口とは行かぬまでもがぶがぶと飲み切るのが正しい。最初に誰に聞いたかは忘れてしまったが、この店主も幾度と無く同じ事を言っていた。
 「それに、色んな事件が有るから、ちょっとやそっとの事で怖気を奮ったりなんざしないが。でも。……まあ、事実。
 ちょっとショックも有ったかな〜。Kちゃんにそっちの知り合いが多いとは思わなかったからなぁ」
 「んなのいないよ」
 不恰好な黒縁眼鏡の奥から、両の瞳が睨み付ける。これくらいは常連客へのいつもの対応の範疇だが、話題が話題だけに楢岡はどきりとした。
 「うっそォ。そりゃ嘘だよ。居なかったら、普通無いだろそんなの。猿楽町だぜ?新宿二丁目じゃないんだぜ?」
 「そんな下らん話がしたくて、閉店まで待ってたの?これ、事情聴取なのか?俺、訴え出してないぞ、勘弁してよ」
 「いや、スマン、御免なさい。これはその冗談抜きで」
 店主の前に両手を突き出す。中っ腹で黙り込む店主に改めて頭を下げる。
 「キナ臭いと言うのは本当なんだ。ピリピリ来てる奴がいるんだよ。これは俺が言い出した事じゃない。余り詳しくは言えないが、その件で動いている知り合いをマスターの所に送った。Kちゃんも今言ったろ、その鷲津って奴がそう。
 物凄く優秀な奴なんだ。俺の知る限りじゃ、間違いなく一番だ。そいつがキナ臭いと言ったらキナ臭いと俺も思う。神田署の管轄内で何かが起きているんだよ。俺には正直、よく分からないけどさ。
 だからさ。今は様子を見てるが、Kちゃんが落ち着いたら鷲津は改めて調書を取りに来ると思う。Kちゃんの事件じゃない、これは一連の容疑の延長捜査という意味で。不愉快だとは思うけど、協力してよ、頼みます」
 一瞬、心臓が喘いだ。
 楢岡がぼやかして言う「一連の容疑」が何か、分かった気がしたからだ。なるほど、と思う。
 街中で起きた事件の多くは、通常、地域課や生活安全課と捜査課が合同になって当たる。初動捜査は地元に密着した地域課や生活安全課から始まる事が多い為で、今回も派出所(地域課)に対する訴えに始まり、付きまといの疑いで生活安全課が参加し、強盗傷害の疑いで刑事課一係へとスライドした。もしこれが長沢だけの独立した事件だったら、生活安全課の段階で捜査は終わりだったろう。被害者本人が事件は無かったと言い張り、強盗の実害も無ければ明確な目撃者も存在しないのだ。立件が難しく、実りの薄い捜査だ。警察が喜んで捜査するとは思えない。だが。
 「一連の容疑」となれば、こちらはまったくの別物だ。
 しかし、「一連」とは恐れ入った。被害者が何人いるのか知れぬが、「一連」の「容疑」と言うからには、それぞれに何らかの関連性を見出した人間がいた事になる。それがあの鷲津と言う男なのか。だとしたら。
 楢岡の言う通り、非常に優秀だ。いや、優秀を飛び越えている。異常な嗅覚か第六巻の持ち主か、強いコネの持ち主か。いずれにしろそうした状況を全てプラスに出来る、飛びぬけた才覚の持ち主に違いあるまい。
 「一連の容疑」の「容疑」は間違いなく「殺人」だ。それも恐らくは要人の。「一連」が万が一実証されれば、それは実に、実りの多い捜査となる。
 だからか。長沢は内心で舌を打った。
 キナ臭いと思ったから、あの刑事は時期のずれた写真週刊誌を置いていったのか。特集は「外国人犯罪の悪質化」だった。
 キナ臭いと思ったから、数日分の新聞を置いていったのだ。駿河台下のマンション「オライアンズ駿河台」での死亡記事を。
 そして。
 記憶は病院のソファに繋がる。
 人気の無い廊下のどんづまり。コの字型に並べられたソファと、大きな観葉植物の鉢植え。腐った主義だな人殺し。納得しなければ殺されない。啓輔。Lo amo.熱い掌と唇と。押さえつけられて身体を開かれた記憶。
 「何を言ってるのか全く分からないよ。俺には、−関係ない。ちょっとした手違いがあっただけで、俺は何もしていない。俺が警察に話す事なんざ何もないよ」
 眉間に眩暈が舞い戻った気がして、額を抑えた。カウンタの上に肘をついて黙り込む。途端、鼻先につんと冷たい物が上がって、一瞬後に熱くなる。しまった、と思った時はもう遅かった。手で押さえるより先に、口許から顎へ赤い液体が滴った。
 驚く楢岡の前で、カウンタ端に放り投げてあるティッシュの箱から数枚抜く。宛がうと同時に白い紙が朱に染まった。
 畜生。昔からそうだ。自分の中の感情の針が振り切れると鼻血になる。パニックの瞬間を知らせる目盛りのようで腹が立つ。第一、すこぶる付きでみっともない。俯く長沢を、楢岡は強引に上向かせた。カウンタにのけぞるような形で寄りかからせ、しっかり鼻を押さえさせてから溜め息を吐く。
 「驚いた。……悪い。病み上がりなのに、そうだよな。いや本当に…申し訳ない。日を改めるよ。その…大丈夫か、Kちゃん」
 「…うるさい」
 背を摩ろうとしていた手を、拒絶の言葉でとどめる。やはり、警察官と名乗って良い事など無いと楢岡は思う。
 長沢は、鼻先を押さえたまま目を閉じた。大丈夫な訳は無かった。背筋を悪寒が駆け上る。蘇る旧館4階の気分を必死に払いのける。過去は過去だ。時の向こうに押しやってしまえば良いのだ。だがそれすら上手く行かない。
 後から後から沸いて出る非現実的な現実に、頭も心も一杯一杯だった。ここは確かに日常なのに。長年かかって築き上げて来た、大切な現実なのに。たった一つの非現実が穴を開ける。引きちぎる。食い散らかす。
 動かぬ店主に、続けて詫びるのも躊躇われて、楢岡は席を立った。
 平気な風を装ってはいたが、店主の動揺は理解できる。同情して余りあるし、日頃から付き合いの深い人物を、追い詰める気も無かった。追い詰めるどころか。
 出来れば力になりたいと考えたし、現在も差し伸べる手の用意は幾らでもあるのだ。だが、その上手い方法を分かりかねて手をこまねいている。
 会釈をして踵を返す。扉を押し開け、出ようとした瞬間。
 ようやっと店主が面を向けた。血が止まったのを確かめて立ち上がる。
 「有難う御座いました。おやすみなさい。悪いな、別に楢岡君を責める気は無いんだが……」
 瞬間、外の人影に凍りついた。
 夕刻、交差点の向こうに垣間見えたと思った非現実が今、目の前にいた。
 ホワイトグレーの短い髪、切れ長の目。奇妙な瞳の男が、ガードレールに身を凭せて蹲っていた。ピクリとも動かず、じっと視線を一点に合わせて蹲っていた。赤いパーカーの上にグレイのマフラーをぐるりと巻いて、その中に埋められた口許から、微かに湯気が立ち上っているのが唯一の生物の証拠のようだった。冷たくて不動のそれは彫像のようで、思わず店主とそれを見比べる。
 そしてやっと、彫像の視線の先が目の前の店主である事に気付いた。
 「Kちゃ…」
 「お休み、楢岡君」
 有無を言わせぬ言葉が店主の口から漏れる。
 楢岡は仕方なく歩み出した。一歩一歩、後ろ髪を引かれる思いに、何度も何度も振り返りながら。
 険しい表情の店主と、微動だにしない彫像を残したまま。
 

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