□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 時間を過ごした。それくらいの事は冬馬にも良く分かっていた。
 だが、昨年末から持ち越した欲求不満は如何ともし難く、一度はけ口を見つけたら、止める手段がなかったのだ。
 柔らかい肉体を抱き締めた。それなりの手順はちゃんと踏んだ。相手が良いと言ったから、合意の上でほんの三時間…四時間程楽しんだだけの事だ。
 相手が処女で多少時間を食ったし、満足するまでに多くの手続きが必要だったが、取り敢えずの満足は出来た。完全とは行かぬが、暫くは保つ程度には満足した。―― 少なくとも冬馬は。
 だから、携帯を繋いで12件の留守番電話メッセージと着信履歴、21通のメールが来ていたのには辟易した。
 ホテルから出ると、街は暮れ掛けていた。約束の時間は15時だったが、時計は17時近くを指していた。遅れてしまったからにはどうしようもない。今向かっていると電話で伝えると、上ずった声が分かりましたと叫んだ。お願いしますから急いでお出で下さい、そう懇願されてやって来たのだ。
 元々、苦情を言っているのはこちらだ。苦情に対応する役割の人間に遠慮する理由など、ただの一つも有りはしない。
 タクシーは直ぐ捕まり、ステラミラー・ビルに着くまでに10分と掛からなかった。冬馬の所為で歩き辛そうな彼女の手を引いてタクシーを降りる。ガラス戸の開け放たれたステラミラー・ビルの正面玄関に、ずらりと殉徒総会上層部と思しき人の列が並んでいた。
 一瞥して、ふん、と思う。
 有象無象を大勢揃えたからどうだと言うのだ。何人いようが雑魚は雑魚ではないか。ものの数にもならない。会う必要が有るのは、たった一人。その中央に居る一人だけだ。
 十把一絡げの人の波の直中に、榊 継久の顔をみつける。そこに少なくない焦燥と怒りの表情を見つけて、冬馬は嘲笑う。俺を待っていたか。恋焦がれて、到着を今か今かと待っていたのだろう?
 これ見よがしにゆっくりと辺りを眺め回してやる。脇の女を必要以上に抱き寄せる。
 榊が半歩進み出すのに合わせて、有象無象が一斉に頭を下げた。
 
 どうかしている。
 長沢は立ち竦んでいた。
 全くどうかしている。おかしいのだ、自分は。
 初めて他人の目で青年を見る。いや違う。他人である青年の顔を初めて見る。恐らくは初めて出会った時、青年は今のような顔をしていたのだ。暗くて、怒りに満ちて、取り付く島の無い。
 灰色の双眸が全く何の変化も見せず、気付きも微塵も見せずに長沢を通り過ぎた時、脳天を叩き割られた気がした。がぁん、と頭の中で酷い音が響いた、そんな気がした。思わず視線で取り縋って、改めて戦慄を覚えた。自分は一体、この青年に何を期待していたと言うのだろう? 分からなくなった。
 微笑みかけてくれるとでも? 手を振ってくれると? 名を呼んでくれると? 長沢と知り合いでもない人物がか?
 どうかしている。
 青年の反応は理に適っている。すこぶる正当だ。おかしいのは、こんな事でショックを受ける温い自分の方なのだ。長沢は思う。
 視界の奥に居る青年は、"水上 冬馬"ではない。恐らくは"岐萄"。岐萄を名乗る他の誰かだ。
 秋津の命を受け、殉徒総会に入り込み、破壊するのか操るのか、兎に角秋津の思うように、このカルト宗教を変えようとしている草。そこに水上 冬馬の名は無い。歴史は無い。だから。
 目の前の青年は、知りもせぬ男を見る時にそうするように長沢を見たのだ。
 名も知らぬ人の群れを見る時にそうするように。日々過ぎていく時間を見る時にそうするように。背景を見た。空気を見た。ただそれだけの事なのだ。
 息を飲み込む長沢の脇で、酒井医師がごくりと生唾を飲み込んだ。
 「……美也………」
 その言葉にぎょっ、とする。
 いつの間にか俯いていた顔を慌てて上げる。
 見慣れた青年の隣に、ダウンコートを着た小さな人影が有った。青年の脇に半ば抱えられるようにして立つ姿は、髪を明るめの茶色に染め、素顔と印象の違う化粧もしているが、明らかに酒井 美也、その人の物だった。気付かなかった自らの愚かさに血が上る。何を見ていた、この馬鹿は!
 酒井医師の肩を掴む。
 視線の奥で、酒井美也は冬馬が見ていると同じ人物を見つめ、大きく一歩退いた。冬馬の手を避けるように、引いて、頭を下げる。
 頭の中に警鐘が鳴り響いた。
 時間は、ほぼリミットだ。今すぐ、ここを出ればバッカーが駆けつける。恐らくは。酒井美也を取り戻せる。
 冬馬と美也、二人が見つめる先に居るのは。
 榊。
 幽霊。
 酒井医師の耳許に囁く。
 「先生、今行けば、直ぐにバッカーが助けてくれる。俺を待つな。行って下さい、攫うんだ。美也ちゃんを。取り戻せ」
 一瞬、酒井医師が、え、と長沢を見る。一緒に行かないのか?と問う視線に、長沢は答えずに、行けという意味で頷く。医師もただ、頷いた。
 酒井医師の目的は最初からずっと娘の奪還だ。この際些事には構えない。時折読み取れない長沢の意図に、かき回される訳には行かないのだ。じゃ、行くよ。そう言う意味で頷く。ほんの一瞬の事だった。
 ずらりと並んだ背中が一斉に頭を垂れる。長沢の手が医師の肩を叩き、同時に波のように低くなる人の頭の中を、医師は駆け抜けた。
 動き易いからと、病院でも好んで履いていたスニーカーは音も無く、リノリウムの床を蹴ってアスファルトを踏みつける。開け放たれた扉から走り出し、冬馬の数歩後ろで同じように頭を垂れる酒井美也を抱き締める。彼女は声も出さなかった。
 薄暮の街の風景で、一瞬遅れてじゃりじゃりと、複数の靴音が湧き出す。全員が顔を上げたのは、僅かに遅かった。
 (株)バッカーのスタッフと思える大柄なスキンヘッドと、数人の若者が駆け出す。殉徒総会員の列の前に躍り出て、彼らの目から彼女と医師を覆い隠す。異変に緊張して駆け出した殉徒総会員は、タッチの差で彼らに行く先を阻まれた。幾つもの腕と身体が揉みあう。スキンヘッドが総会員の腕を払い、ビルの中にを押し戻す。その間に銀色のヴァンが駆けつけ、酒井医師と美也を引き摺り上げる。スキンヘッドと若者は後ろから二人を押し上げて、そのまま車に乗り込んだ。
 怒号が薄暮の街に溢れ返る。アスファルトに擦れる足音と、タイヤの擦過音、エンジン音が交差する。一回大きくクラクションを鳴らすと、ヴァンが駆け出した。
 長沢は、騒ぎに乗じて駆け出した殉徒総会員の立ち位置に入り込んだ。動揺が広がる人の波にそっと潜り込んで顔を出す。ほぼ、冬馬の正面の位置だった。彼が標的として見つめる男の背後が直ぐ目の前に有った。
 榊。榊 継久。秋元は言った。
 
 年齢も顔も分からない。いつも里中先生の側を守るSPみたいなもんの一人だが、どれだか分からない。
 闇の中の幽霊だ。側に居るのに見えない、脇を通り過ぎても誰も気付かない。多くの人間の目に触れながら、誰も正体が分からない。
 それが、榊 継久だよ。
 
 その男が、今目の前にいる。
 顔が見たい。その正体が知りたい。どうしてもこの目で、見たい。
 教祖・里中 汰作が次代に選んだカリスマ。今現在、殉徒総会員を従えて立つ男。後ろから見る男は、むしろ平凡にすら見えた。
 身の丈は標準よりは高いが、180cm弱だろう。現代では、特別に高いとは言えぬ背丈だ。体躯はしっかりしているようだが太っても痩せてもおらず、着ているスーツも平凡だ。髪は短く、これもまた一般的だ。ただ、一つ言える事は。
 彼が、間違いなくこの場に居る殉徒総会員の中ではトップだ。集団の、頂点に居る。
 確かに、冬馬も美也も、この男だけを認識した。その他大勢と榊。彼だけが特別だったのだ。
 そっと側に構える。後ろ姿の男の側に、潜む。
 
 青年が男の直ぐ側に立つと、男は大きく深呼吸をした。周囲の総会員が一斉に顔を上げる。
 「お待ちして、おりましたよ。岐萄 朝人君。随分とお忙しいようだ」
 青年が鋭い瞳を向けたまま、ふん、と鼻息を吐く。長い前髪に半ば隠された瞳には光も入らず、青年の感情は伝わらない。ただ硬質な冷たさが伝わってくるだけだ。榊は小さく笑った。
 荒削りだ。野放図すぎる。青年を見て直ぐに分かった。彼はたった今、腕の中にいた女とSEXをして来たのだ。流されていない汗のにおいに快感が混じる。纏ったままの興奮と悦楽が榊を包み込む。何と言う。
 冷静で正確だと思えば、肝心な所で箍が外れる。どこに、秋津同志の最初の会合で自分の欲を優先する草が居る。自らの身体の欲求一つ抑えられずに、何で他者を操れる。榊は呆れた。余りにも大雑把な精神構造に。彼の価値観に。だが同時に。
 たまらなくくすぐられる。未完成で有るからこそ。野放図で有るからこそ。可能性への夢想を掻き立てられる。それは恐らく榊の中の。或いは組織と言う匿名の集団の、どうしようもない期待だ。
 前髪が風に煽られて持ち上がる。幾筋かの、額についたままの毛の束が、彼の汗の存在を匂わせる。
 「そちらの要望どおりの場所に来たんだ。そこを憶えて置いて貰いたいね。苦情を言うのは俺で、あんたじゃない」
 ゆっくりと、青年の顔に手を伸ばす。左腕を持ち上げ、頬を覆うように掌を広げる。その肌に手を延ばす。悦楽に上気していた肌に指を滑らせる。肌の上に指を這わせる。
 それに合わせて、上半身がかすかに右回転する。背後に向けて。ゆっくりと顔が向く。
 回転する。身体が、首が。ゆっくりと背後の視界に向けて顔を向ける。じりじりと、ターンする。背後からの銀幕の中央に、注視の中で謎と言われた男の顔が映し出される。
 やや面長な輪郭も、彫りの深い造作も、目の周りを大きめに覆うサングラスも、その隙間からかすかに覗く二重の目許も。それぞれがはっきりとした特徴で有るにも拘らず。
 平凡な。凡庸な。特徴が有るからこそ、凡てが埋没する、平凡な容貌の男が顔を見せる。
 男の左手が、青年の頬をやんわりと押さえつけ、引き締まった不機嫌そうな表情を辿りながら、ゆっくり引き寄せる。両側から挟みこむように右手を上げて添え、指の長い手が…
 
 脇から伸びた左手にがっちりとつかまれた。
 
 青年と榊だけの世界に、唐突に異分子が入り込む。
 その場の全員が、その異分子に驚いた。そこに有り得ぬ筈の"邪魔"に驚いた。組織が付き従う人物の手を指し留めたその"無礼"に息を呑んだのだ。
 全員の視線が、手の持ち主に移動する。十数人分の瞳が、まるで音を立ててその手の持ち主に注がれた。
 ―― ああ。
 榊の直ぐ背後だった。手を伸ばせば容易く命を取れる至近距離まで、その男は近づいていたのだ。
 全員の目が見つめたのは、榊以上に凡庸な男だった。
 身の丈も容貌も標準、体格はむしろ標準以下の男が、榊の腕を掴んで取り引き寄せていた。
 クリアな視界で見た物を凡て。記憶に、叩き込んだ。男の感嘆の声が全員の耳朶を打つ。
 溜息交じりの声は、大きくは無いが、はっきりと全員の耳に、意識に、届いた。
 「貴方が、榊、継久……」
 全員が、余りにも予想しなかった一幕に面食らっていた。何が起きているのか、理解もできぬ。
 この男は一体誰で、何故ここに居るのだ、極自然に、当たり前のように。
 「そうか、……貴方が」
 灰色の双眸が榊を離れる。先程は風景だった男の顔に縫いとめられる。
 長沢は、空いている右手を榊の方へ差し伸べる。触れようとするかのように。触れさせようとするかのように。延ばして、黒眼鏡を引き下ろす。
 ああ。
 呟きが続けた。
 「――そうだ。俺は。
 貴方を良く知っている……。そう、良く、知っているよ。とても、良ぉく…ね」
 背景だった男の顔に縫い付けられたままの灰色の双眸が、見開かれる。今や榊の顔を見つめたままの男の顔を刮目して見つめる。
 がくり、と。ほんの一瞬、灰色の頭が震えたのを、長沢は気付かなかった。長沢の眼中に、この時の冬馬はいなかった。他の殉徒総会の面々も、その状況も、凡てすっかり飛んでいた。あるのは。たった一人の男の姿だけだった。
 榊。榊 継久。幽霊。謎の存在。
 幽霊だって? 謎だって?―― 冗談じゃない。
 思わず笑う。笑みを深める。
 目の前の凡庸な男の表情に、かすかに恐怖の表情が宿るのを楽しみながら。
 良く、知っている。彼は―――
 
 「貴様!!」
 ガン、と言う衝撃が来たのは、視界がぼやけてからだった。榊から引き剥がされ、腕をとられ、榊が黒眼鏡を掛けなおすのに呼応するかのように、クリアな視界が剥がれ落ちた。
 しまった、コンタクト。そう思う間も無く、いきなりガンと衝撃が来た。体勢を立て直す。足を踏ん張る。今度は背中から衝撃が来た。腕を掴まれる。首を掴まれる。引き摺られる。抗いようが無かった。どしん、と腹に重い痛みが叩き込まれた。
 「誰だこいつは!誰が入れた!」
 「放り出せ!何やってる、外! 外に出せ」
 怒号が頭の上を飛び交う。幾つもの腕が頭や肩や腕を掴む。必死に目を開けるが、両目から先程までのクリアな視界は既に奪われていた。手を突き出す。触れるものに捕まって引き寄せる。
 灰色の頭がついて来た。
 目睫の位置で、ピントが合う。縁だけ黒い、灰色の瞳。
 数本の腕に引き剥がされる。ズルズルと引き摺られて、靴の裏にアスファルトを感じたと思った瞬間、身体が自由になった。
 脚が浮いたと思ったのが、恐らくは最後の明確な記憶だ。薄暮の街がぐるりと回ったのと、大勢の人影が頭上で蠢いてた記憶があるが、あれが一体いつの事だったのか判断がつかない。どうせ目を開いていても、全く焦点の合わぬ世界では何も意味が無い。諦めて目を閉じると、大勢の人の声が、口々に訳の分からぬ事を言った。
 啓輔。
 無意識にそんな言葉を捜した。ハスキーでぶっきらぼうで、甘えるような声色を探した。
 だがやはり、そんな物は記憶に無い。
 

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