□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 1月19日をもって衆議院は実質上解散となり、選挙公示日は2月15日、衆議院総選挙投票日は2月ギリギリの28日と決まった。
 投票で確実に自明党は議席を減らすだろう。その動揺をいなしてから、本格的に現衆議院解散、新内閣発足の形になると言う事だ。
 現内閣が捩れ状態にあり、元々殆どの議題が参院で否決され、差し戻しと言う状態に有った。それでも、ようやっと年明けに補正予算案が可決されたのは不幸中の幸いであると言えたろう。次に与党となる政権に、まともな国家運営が出来るのかどうか、それがすこぶる付きで疑問なのであるから、せめて予算だけは決めておかねば、即日国が成り立たぬ。
 兎にも角にも、40日以内に総選挙、その後30日以内に国会を開かねばならぬのであるから、その間にすべき事は幾らでもあるのだ。
 秋津にも。
 秋津になりきれぬ部外者にも。
 
 長沢はいつもの如く、朝のラッシュをこなしながら考える。
 殉徒総会との一件を通じて、自分が手に入れた幾つかの情報がある。情報の殆どは大して貴重でも無く、公表して一向に構わない。だが、ただ一つ、秋津関連の事柄だけは胸に仕舞っておかねばならぬ。誰にも漏らしてはならぬ。
 少なくとも、今は。
 最初に感じたのは、自らのひ弱さだった。何も出来ない。何の力も持たない。非力で無力な自らへの失望。それだった。
 だが時が経つにつれて、ただの悲観に解決策など無い事に思い至る。悲嘆にくれるのはいつでも出来る。今すべき事は現状の打破だ。そう気付けば、では力をつけようと言う事になる。
 力をつけると言っても、腕力の事ではない。元々非力な長沢が多少腕力をつけたからと言って、それは標準的になるだけの事で、突出できよう筈も無い。長沢がつけるべき力は"知力"である。知識である。情報である。策略である。
 自分は余りにも無知で有った。殉徒総会や公正党、引いてはその構成員に対して、無知であり過ぎた。何も知らなかった。何も持っていなかった。もっと必要なのだ。知識が、情報が。支える人々が。
 まず必要なのは、その為の地ならし、下調べだと感じた。
 一般的な知識なら、インターネットで得られる。だがこうした事柄は、インターネットに入力して得られる物だけでは心もとない。勿論、そちらも充分有用では有るのだが、物が殉徒総会となると煩雑過ぎて茫洋とし過ぎて、根本に辿り着くのが難しい。更に、その政治部門となると、更に難しい。
 綺麗事のオブラートが分厚く、零れ出る真っ黒な噂とのギャップに悩まされる。恐らくは黒い方が真実に近いのだろうが、ここはどうしても。実際に関係のある人間の話から入るのが好ましい。
 先日の奪還以来、酒井医師はSOMETHING CAFEから姿をくらましている。
 いや、正確には奪還の翌日以降、と言うのが正しい。その日以降、ほぼ毎昼に顔を出していた酒井医師は顔を出さなくなった。欄天堂大学付属病院に十日間の連続休暇を申し出て居ると聞くから、それは当然の事だろう。
 愛娘の身柄は「奪還」したものの、心の「奪還」は未だ為されておらず、こちらは身体より難しい。その為に医師は現在、必死で取り組んでいる最中なのだ。
 奪還の翌日、酒井医師は真っ赤な顔でSOMETHING CAFEに走り込んで来るなり、膝をついた。
 厨房から飛び出してきた長沢が、慌てて医師を階段ホールに連れ込んだ。興味をそそられた従業員達が、ホールのドアに耳をつけて聞いていた情報によると、泣き声がひたすら「すまない」を繰り返し、店主が「おめでとう」を繰り返すと言うちぐはぐな物であったらしい。
 10分も立たぬ内に、酒井医師を伴って店主が戻り、以降はカプチーノと通常のおもてなしとなった。
 要約すると、娘の為に怪我までさせて、しかもそれを医者が放置して帰るという失態を演じてしまって、何と侘びを言えば良いのか、と平身低頭の医師に対し、長沢が美也ちゃんが帰って来て本当に良かったと応えていたと言う事だ。
 医師お気に入りの看板娘にも祝福して貰い、これからの本当の意味での「奪還」を労われて、医師は帰って行った。
 次に店に訪れる時は、いつもの酒井医師であり、宗教や政治と無関係な常連になっている事だろう。勿論、以前よりも殉徒総会やカルトの活動には敏感になるだろうが、それとて極普通の親として、である。
 長沢が求めるものとは、本質的に全く違うのだ。
 課題が、幾つも有った。知らねばならぬ事、考えねばならぬ事が山積していた。
 考える事に苦痛は感じない。パズルは大好きだ。ピースさえ揃っていれば必ず完成に辿り着くのだから楽なものだ。問題は。
 凡てのピースを揃える。それなのだ。
 まずは知らねばならぬ。この話の辿り着く先を。殉徒総会に潜り込んで行なわれる、秋津の策略劇の凡てのピースを、揃えねばならぬ。長沢は心中で指を折った。知らねばならぬ事、揃えねばならぬピースの数は、今の段階ではようとして知れぬ。ただ巨大な袋に大雑把に分かれている事だけは分る。袋の数は、三つ。
 まず一つ。「殉徒総会についての基礎知識」
 これは、先代の一件も有り、多少は足がかりがついている。あの一件以降、(株)バッカーの秋元は長沢に協力的であるし、今ならかなり深い部分まで聞いても情報を得られるだろう。
 次の一つ、「公正党についての基礎知識」
 公正党は殉徒総会の一部であるとは言え、全く異質な要素もある。何しろこれは「政治団体」であり「政党」だ。経典ではなく綱領を持ち、会員ではなく党員を持つ政党なのだ。であるのだから、これを知るのに必要なのは信仰心ではなく、冷静な頭脳だ。政治分野の人間の解説が是非とも必要だ。
 シティバンクにいた時ならいざ知らず、現在の長沢に政治家とのパイプは無い。有っても精々、地元の議員くらいのものだ。東京一区は現与党が強いので、自明党と公正党の議員は一人づつ全国区に出て居るが、実力者かと言うと微妙だ。そちらにも働きかけるとした上で、もう少し詳しい知恵袋が欲しい。
 そして最後の一つ、「秋津についての凡て」
 いずれの袋も大きくて重く、細かいピースがぎっちりと詰まっている。手に入れるのは至難の業だが、手に入れねばならぬ。凡て手に入れられれば。
 完成は間近だ。
 秋津。心中で繰り返す。秋津。秋津島。
 生涯の相棒と決めた者が導いた場所。語弊が有るのなら、生涯の相棒が生きる場所。自らは、今相棒の住まうその世界の、入り口にじっと佇んでいる。
 暴虐から始まった関係が、いつしか"同志""相棒"にまで昇華した。恐怖だった感覚は、いつしか深い理解と共感に変った。怒りに満ちた若き相棒に共鳴し、彼のバックアップに一生を費やそうと決意した。そして今。
 その相棒はいない。
 今彼は、秋津の草として、別の人間になっている。別の人生に棲んでいる。今の彼は長沢の相棒とは、別人だ。
 潜り込んだ場所で会うには会ったが、彼は長沢の知る相棒ではなかった。無関心な瞳を見て、裏切られた気になった自分自身に驚いた。他人の目で見る相棒が、これ程に威圧感のある存在なのだと今更ながら思い知った。
 初めに会った頃。青年は陰気で印象の強い存在だった。だが良く知る頃には、それは凡て恐怖の象徴になった。身体に刻み込まれた痛みの方が強烈で、冷静に彼を観察した事など無いのだ。青年の纏う怒気や冷たさを、思えば長沢は初めて見たのかも知れぬ。
 冷たくて、取り付く島がなかった。本当にこれが一度は運命を結んだ人間なのかとすら感じた。
 感傷だと分かっている。つまらぬ恨み言を反芻しているに過ぎないと感じる。青年からしてみれば、今の長沢の存在は邪魔にこそなれ、何の利点も有りはしない。長沢とて思わぬでは無いのだ。このまま何もせず、凡ての"話"が終わって青年が帰って来るまで、じっと待機していれば良いのではないかと。
 だが、同時にそんな事は自分には出来ないと良く分っている。
 既に長沢は部外者ではない。殉徒総会にとっても、秋津にとっても、長沢は当事者なのだ。
 秋津について、部分は知っている。だがもっと知らねばならない。相棒は頼れない。となれば現在の取り付く島は一つだけだ。
 こちらから連絡は取れぬ、二十四節季の名を持つ白露。彼の動きを待つ他は無い。そして彼が接触して来た時は。
 誇り高い秋津の草を、煽って持ち上げて、上手く操縦せねばならない。その為の算段は目下必死に整えているが、やはりまだ情報が決定的に足りない。
 そう考えれば、着手すべき順番は自ずと決まって来た。
 殉徒総会を踏まえ、公正党を学び、それを持って秋津と交渉する。
 となれば。
 辿り着く先は一つしかなかった。
 

 聞きましたよ。
 席に着くなり、その人はにんまりと笑みを浮かべる。長沢は苦笑しながらバスケットを置いた。
 洋興大学歴史文化学部准教授。楢岡言う所の「反公正のスピーカー」こと浅井 慎一。学部こそ違うが、看板娘、奥田早紀の母校の教師だ。
 洋興大には付属高校がある為、今回の履修時間不足問題とも無関係ではなかった。冬休み期間中は、キャンパスを借り出しての合宿もあり、大学の講師、教授達も心穏やかではなかったようだ。
 訳の分からないオコチャマにテリトリーを荒らされては堪らんと、押し出し的にキャンパスから脱走するゼミも有ったと聞く。だが、彼はそう言った種類の教師達とは真逆のタイプだ。自らのテリトリーに入り込んで来る者が有れば、自ら相手にぶつかりに行き、敵と判断すれば容赦なく攻撃して排除するし、同属であると判断すれば子供のような好奇心で取り込みに掛かる。良くも悪くも臨界に近い燃料のような存在だ。
 ビビッドでアグレッシブ。エネルギーも生むが衝突やトラブルも生む。大学と言う組織においては、問題児である事だけは確かだ。
 鉄は熱い内に打ての言葉通り、思想も学問も確立させるなら若い頃が良いと浅井は言う。
 思春期は誰もが左翼思想に染まるが、それとてきちんと修身と愛国の心得が有ると無いとでは質が違う。"地球連邦"を語るSF的平等思想においても、未知に対抗する為の"地球"と言う運命共同体を語るのと、茫洋と"友愛"を語るのでは、思想の根幹が違う。前者は愛国的発想であり、自衛本能であるが、後者は単なる机上の平等思想だ。平等こそが目的で到達点だと言い張る思想には、哲学も、経済の概念もない。形だけはあるように見えるが、触れるとさらさらと崩れてしまう。決定的に身が無いのだ。
 身を付ける為の方法はたった一つ。伴に時間をかけて育つしかない。だから、浅井は言う。
 幼少からの思想教育。健全な愛国心と修身を学ばせる。今こそ、教育勅語が必要な時代。かつてない程にね。
 付け足して、それが帝国主義的だと言う狂信的サヨクはこの国から纏めて支那に送りつければ良い。共産党教育は、純粋な思想統一を目指している。少しでも外れた事を言えば、容赦ない鉄拳と粛清の嵐が吹き荒れる。上手く立ち回って生き延びさえすれば、自らの脳を振り絞って考えずとも、美しく整えられた毛沢東系共産思想を徹底的に注ぎ込んでくれる。そこにもう迷いは無いさ。
 帝国主義を否定して、皇帝の軍門に下る訳だ。さぞや考えぬ世界は心地良いだろうからね。彼らには。僕は丁重にお断り申し上げるが。
 長沢はその言いっぷりが到く気に言って、このスピーカをチェックし始めたのだ。ほんの数ヶ月前の事である。
 窓の外が夜景になってから、随分時が経っていた。仕事が終ったら行くと言う言葉通り、浅井は分厚い皮の鞄を抱えてSOMETHING CAFEにやって来た。明らかに帰途だと分る出で立ちだ。
 迎える長沢は、既に北村を帰し、店の殆どの清掃を終えた段階だった。
 彼が顔を出したのは、まだ三人ほど客が残っていたタイミングだ。ラストオーダも取った後で、店主のすべき事は、残った客達の語らいを邪魔せぬ事だけだった。厨房を片づけ、机を全部拭き、モップで人気の無い部分の店のスペースを磨き終わった、丁度その辺りだったのだ。遅すぎた?と浅井が入って来たのは。正にグッドタイミングだった。
 浅井のついたテーブルに珈琲の香りが立ち上る頃には、SOMETHING CAFEは貸切になっていた。
 「ああ、モロにここに入ったなー。ちゃんと精密検査はして貰ったんですか」
 まだ腫れの引かぬ長沢の顔を覗き込み、左の眼窩に指を添えて言う。長沢は反射的に指をよけてしまう。流石に武道をやっていた人間はダメージの箇所が良く分るものだ。浅井はその反応に心なしか満足気だ。
 「次の日にきちんと精密検査も受けましたし、診断書もばっちり書いて貰いましたよ。そう言う意味じゃ殉徒総会の息の掛かっていない欄天堂病院で見て貰ったのはラッキーでした」
 で。
 浅井は、長沢の用意したバスケットの中身を口に放り入れる。チキンボールとフレンチフライ。今日のブレンドはグアテマラ・アンティグア。酸味が強めなので、油物にも最高のマッチングだ。
 「長沢君は誰を告訴したくて僕を呼んだのかな」
 長沢は、人気の少なくなったSOMETHING CAFEの、最も奥の席に浅井を案内した。その手前に腰掛けて自らも珈琲のカップを取る。
 好奇心旺盛な瞳を持った准教授は、見た目は年齢相応だが、その精神は非常に若い。物怖じせず目の前の問題に飛び込んでいく様は少年のようでもある。実際、十代〜二十代の若い世代と伴に行動する時は溶け込んでいて見分けがつかぬ程だ。
 反面、若者には持ち得ない"亀の甲"の部分も有る。人付き合いが上手く、諸先輩との交流関係が広いので、保守論者にも拘らずかなりの横の情報網があり、活動上手だ。公安とも右翼ともそれなりに馴れ合って居るのが珍しい存在なのだ。
 「榊 継久。次代の殉徒総会会長予定者ですね」
 名を聞くと、浅井が一瞬顔をしかめた。
 「は?」
 「申し訳ないが、僕はその名、全く知らないな」
 しばし見つめ合ってから、本当ですかと丸い目をした長沢が問う。浅井はカップを口につけたまま、うん、と答えた。
 「いや、驚く事でもない。殉徒総会と公正党の関係は、あくまでも支持母体と支持政党。政教分離に叶ってるんだ。――とは、連中の言だけど。
 実際は支配組織と奴隷みたいなモンですよ。公正党だけ見ていても、殉徒総会は良く見え無いのが現実でね。
 殉徒総会はあくまでも宗教法人。代表役員は藤木 成明、会長は塚田 栄一で、教祖様は名誉会長。人事はほぼここで決められて公正党には指令が行く。公正党はあくまでも政治部門で、政党事務所も別にある別組織として運営されてるけれど、所詮は位が違います。
 殉徒総会の1ジャンルに過ぎない公正党と関係ない、殉徒総会VIPの名なんざザラで、そこは全く驚くに値しないんですよ。………ただし。
 次期会長となると少々勝手が違うがねぇ。僕が全然知らないのは不覚だ。それは確定なのかな、長沢君」
 (株)バッカーが掴んだ情報ではあるが、その点まだ内密に願いたいと言い含めて肯定する。浅井は頷いた。
 「しかし、となると。この一件については、先生にお願いするのはご迷惑に当たりますか。総会では有っても公正じゃないと、カウンターに使えないし…」
 いやいや、長沢の言葉に首を振る。それとこれは別だと言いながら、バスケットの中身を掴んだ指を舐め、鞄を開ける。
 「それとこれは別です。むしろこちらがお願いして、情報として聞かせて貰いたいし、経済的援助は出来ないが、人的援助は出来ます。何しろ仲間内は何人も総会及び公正関連で訴訟を食らってますから、慣れた弁護士の知り合いなら、何人もいますからね。ただ。
 実行犯じゃないと傷害罪で起訴は難しいし、責任者だからと教唆に問えるかどうかも微妙です。訴える相手は慎重に選んだ方が良い。それと。
 法曹には殉徒総会の息が掛かった人間が驚く程多いですよ。検事も裁判官も。十中八九、常識的な判決は出ないと覚悟しないと。それでも闘いますか」
 心構えを問うているのだと良く分る。殉徒総会はカルトだ。しかも強大な。それと闘う強靭な意志が本当に有るのかと聞かれているのだ。
 戦前に端を発し、70年代に宗門から破門され、独自の発展を遂げた宗教と、それを支持母体とする政党。
 今や殉徒総会で800万人を超し、公正党でさえ40万人を超すという大所帯だ。この人数を敵に回すのには、それなりの覚悟が必要不可欠であるのは言うまでも無い。
 個人客によって成り立つ小規模産業や、日常品、飲食物を取り扱う問屋及び小売店にとっては、即ち商売の障害になる。SOMETHING CAFEのような外食産業など、事が起きれば死活問題だ。本来絶対に避けたい諍いの筈なのだ。
 「はい。やりますよ。訴える相手の名前は、正直殉徒総会のそれなりの立場の人間であれば構わないんです。それで現在、奪還ビジネスの(株)バッカーの皆さんと協議中です。
 彼らはハイエースの中からばっちり動画を撮ってくれていたので、俺を殴った人間も放り出した人間も分りました。今はまずこれを警察に提出して、刑事事件として立証して貰うべく動いてますし、同時に民事でも殉徒総会を訴えたいんですよ。
 何しろ俺、あの人達のシンポジウムに出て、それに賛同してステラミラー・ビルまで行き、そこでのこの有様なんですから」
 浅井は途中からにんまりと笑い始めた。珈琲を味わっていると言うよりは、彼が賞味しているのは長沢の"ネタ"なのだ。
 「先にちょっと良いかな、長沢君」
 はい。と黒縁眼鏡が身を乗り出す。
 「先に確認すべき事柄と、確認しておきたい事柄が有るんで、そちらだけ押えさせて貰いたい」
 「はい」
 「先の日曜日に、君は、お知り合いの人と殉徒総会のシンポジウムに出かけて、その方の娘さんを奪還して来た。その際には奪還ビジネスをやってるバッカーさんの手引きが有り、君もその人もバッカーさんに従った。だろ」
 「いいえ。バッカーさんとお取引が有ったのは知り合いの方だけです。俺は紹介しましたが、ビジネスに絡んでません。だからシンポジウムの時も、俺はたまたま付き添いと言う形になりましたが、自由意志での参加者です。そこらは、僕がシンポジウムに行く時にバッカーさんから何の用具も貸し借りして無い事、金銭の動きが全く無い事からも明瞭ですよ」
 いやいや、と浅井が手を振る。
 「それは無理が有るだろう。大体侵入の発案者は」
 「俺です。最初はね。普通に殉徒総会に乗り込もうと言ったんです。それは駄目と言われて、街の情報誌でシンポジウムを見つけました。それで行く事にしました。バッカーと知り合いは、むしろ後乗りです」
 「……と言う事を、君は法廷でも言うつもり」
 「天地神明に誓ってこれが真実です」
 浅井の顔が、笑いにくしゃっとなる。
 長沢と同年代のこの准教授は、年齢の割りに体躯も考え方も若々しく、その行動力たるや若者を遥かに凌いで精力的なのだが、笑顔だけは年齢相応だ。スポーツマンらしい浅黒い顔に深い皺が走る。そんな様相も、この男の実直さを現しているようで、長沢には好印象だ。尤も。
 一部公安や左翼的思想の持ち主には非常に悪辣なものに映るらしい。
 「了解。その善意の殉徒総会シンポジウム参加者が、総会員に殴られて放り出された。で、特定個人及び総会を相手取って告訴する、と。なるほど。それだったら突っ込まれる理由は一つも無いな。君は正真正銘の被害者だ」
 「はい。その通りです。痛い思いもしたし、非常に怒ってます」
 「道理だね。では、僕を呼び出したのは、その為の協力要請が一つ。それは了解。是非やらせて頂きましょう。でも、呼び出した理由はそれだけじゃないね。メインは別だ。何ですか」
 全く持って仰せの通りだ。頭もカンも良い人間は好きだ。楢岡と話していて気分が良いのは、直ぐに相手がこちらの言わんとする所を汲み取ってくれるからだ。煩雑な手続きが無くて、その点非常に心地良い。同じ心地良さを、准教授にも感じる。
 「はい。二つ程。まず1。
 先生の団体が…えーと"健政会"がどこかで打合せをする際、ここをお使い頂ければ有り難いと言うラブコールです。俺、店の関係でなかなか活動に参加出来ませんが、気持ちはあるんです。もし家をお使い頂ける場合は、料金はうんと勉強します。ただ、打合せしたりする際、店主がこそっと加わってたりするのと、酒類がビールくらいしかないので、明るい時間向きと言う難点がありますが」
 浅井の顔に驚愕と笑いが順に訪れる。なるほど、それは有り難い提案だなとこぼして頷く。それと、と長沢はこれ見よがしに浅井の目の前に指を突き出した。
 「その2。
 もしお時間が有れば、深海亭に呑みに付き合ってくれませんか。公正党ミニ講座と、日本の選挙法改正の講義の肴が食いたいです、俺。肴代はこれから返して行く方向で一つ」
 浅井は吹き出した。
 「それが主旨?」
 「はい」
 「普通に呑みに行きませんかで済む事じゃないか?そんなに色々条件出さなくても」
 「いえ。学びたがるも、代価を払わずは駄目、とね。何しろ皆の浅井教授ですからね」
 講師に毛が生えてるだけのモンだよと笑みを深める。
 「諷刺詞? OK。酒にはやっぱ肴がつき物です。行こう。ああ、肴代は今日だけで充分。それと」
 手荷物を軽く仕舞って、残りの珈琲を飲み下す。
 「ここの珈琲、美味いですよ。仲間も是非、連れて来ないとね」
 商談は、無事成立だ。
 公正党を知って殉徒総会を知る。秋津に辿り着くのはその先だ。
 

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