□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 半ば呆然と言われた長沢の謝罪に、楢岡は苦笑した。もう少し、らしい言い訳でもしてくれれば突っ込む事も出来るが、これでは責める理由が無い。
 「うん、よく寝てた。あんまり気持ち良さそうに寝てるから、じっと枕してた。しかしKちゃん、寝顔可愛いな」
 「うーわ…。寝不足のおっさん捕まえてその責め方は勘弁してくれ。悪かったよ。本当、ゴメン。映画はつまんなくはなかったんだよ。ただ俺、本当に完徹で。静かだし座り心地良いしで物凄く気持ちよく寝た」
 苦笑交じりに席を立つ。本当にすまなそうな長沢が、素直について来るのは奇妙に快感だった。
 楢岡に責める気などは毛頭無い。言った事は単純に本心だ。映画を見たかったのは嘘ではないが、長沢に文芸作品を見せたいなどと言うのは全くの方便だ。彼は今夜、別の目的が有って長沢を誘い出したのだ。その為に侘びなどと言う名目でイベントを組んだ。引っ張り出せれば目的の半分は達成で、その後に長沢が映画を楽しもうが寝てしまおうが、それは彼にとって全く問題では無かった。
 こうでもせねば、客との個人的交友を避ける嫌いの有る喫茶店店主を引っ張り出す事はなかなかに難しい。ましてやマイペースでそのイベントを続けるのは更に難しい。居眠りと言う長沢にとっての失態は、楢岡にはむしろ好都合だった。
 彼らの本拠地の神田界隈に程近い銀座、新橋近隣には、彼ら二人がそれぞれに顔見知りの店も多い。酒が強くない長沢は呑み屋方面に知り合いが多いとは言えないが、食品店業界の多くは重なり合っている物で、一般人よりはそれなりに通じている。
 一方、楢岡は酒好き女好きで顔が広く、おまけに生活安全課勤務であるから、純粋な知り合いだけで無く"便宜を計ってくれる"知り合いの数はなかなか人後に落ちない。
 楢岡のチョイスは、「便宜を計ってくれる」知り合いの店、しかも、「場所移動か暖簾わけによる新店舗」だった。
 新店舗であれば過去のしがらみはない。しかも、今後三ヶ月以上保つかどうかは半々だから、何かのトラブルがあった場合、後腐れが無いか比較的少なく、非常に有り難い。
 楢岡は口当たりのいい、強めの酒を出すよう店長に含め、元々食が太いとはいえぬ長沢が早めに「程よく」酔うようにお膳立てをした。彼はそれなりに賭けの気概でいたが、とかく「予定は未定」である。お膳立てが図に当りすぎる弊害という物もあるのだ。
 ストレスの所為か、長沢は妙に急ピッチで酒を胃袋に流しこんだ。昔はこれでもイケた口だったと言いながら、ビールに日本酒に焼酎と呑んで、あっという間に「程よく」を越してしまった。疲れと空腹も手伝ったのだろうが、それにしても酔っ払いが出来上がる迄に30分とかからなかった。こうなると、性質が悪い。
 「実はKちゃん、悩み相談に乗るって言ったけど、俺も今日はKちゃんに相談があって呼んだんだよね。聞いて貰いたくてさ。実はそのー……って、聞こえてますかぁ?」
 すっかり赤い面相になった黒縁眼鏡が笑う。今日の目論見はハナから外れっ放しである。
 「聞こえてる! 聞いてる聞いてるー、なんつってな!
 なーなー、楢岡君、君と鷲津さんってどれくらい仲いいの?タケとかソーローとか呼び合ってんの、もしかして?んーまー。確かにあの人は、君の言う通り凄いよな。物の見方がひねくれてて鋭いし、良い所突いてる。でさ、普段はどんな人よ?優秀?優秀って言うけどさー。巡査部長って平だろーよ。管理職って警部からだよねぇ。何かさー、大した事なくね?
 優秀と階級は関係ないっ! って分かってますよ。分かってるけどさぁ。なぁんかさ〜〜……」
 日頃は決して相手の言葉を強引に遮ったり、話題を唐突に変えたりしない男が、酒が入ると別人だ。楢岡の言葉を全部さらって、呂律の回らない独白が続く。血色が良くなるのと楽しげなのは救いだが、話題のスライドが早くて微妙なのは少々参る。
 「俺さ、パニくると鼻血出るんだけどさ。楢岡クンも知ってるだろ、そ。あれ、子供の頃からのクセなんだ。うんそー。でもって、鷲津さんが俺の言いたくない事ばっか聞くじゃん。だから彼の前でも鼻血出した訳だけど。
 普通、男が無理やり突っ込まれた話なんて聞きたくないだろ。な!」
 唐突に間近から挑まれて答えに窮する。酔っているが為の直截な物言いに躊躇したのをイエスと受け取った酔っ払いは、満足気に頷いた。
 「そーだろそうだろ。うん。俺も言いたくないし、言うつもりも無い。嫌だと思ったら鼻血が出て、あの人のティッシュで抑えてもらったんだけど、その時さ。
 "貴方の鼻は貴方より正直だ。嘘のつけない身体って奴かな"ってにやにやしながら言ったんだぜ、あの人。…ありえねーだろ。俺なんつーか恥ずかしいやらみっともねーやら悔しいやらで…」
 あいつ。
 意識をこちらに集中させる為に、故意に万人が不快に感じる言葉を選んだのは分かっている。それにしても、言葉の選択が絶妙だ。日頃の冷静で品行方正な鷲津からは想像し難い程、すこぶる効果的で下品だ。感情より計算を優先する鷲津らしい。だが何より。今の楢岡には、好都合だ。
 「へぇーえ。あいつ、俺の知る限り刑事課の中じゃ最も紳士な部類だと思うぜ。その鷲津がそんな言い方するなんてなぁ……。
 Kちゃんが言わせたんじゃない?苛めて欲しそうな顔して」
 酔っ払いの赤い顔が、不機嫌そうに膨れる。
 「何で俺の所為よ」
 手の中の軽いグラスに、すかさず焼酎の緑茶割をおかわりしながら机越しに楢岡に挑む。既に出来上がっていて、かなり酒臭い。このペースで呑めば、潰れるのは確実だろう。
 「俺さ、身分詐称してたでしょSOMETHING CAFEで。失せ物なんでも探します、の私立探偵だって。あれ、女の子にモテたいからって言ったけど、半分…以上嘘だ」
 「何で俺の所為になるんだか言えよ〜…」
 「本当はKちゃんに警戒されないように、そう言ったんだ」
 不機嫌な表情に怪訝な表情が混ざる。酒で痺れた頭には、複雑怪奇な謎かけだったのだろう。多かった口数が急にしぼみ、つまみを箸で悪戯する。口に放り込んで咀嚼し、口の中に何も無くなる頃、ようやっと酔っ払いが反応した。
 「俺、楢岡くんの職業が何であれ、別に差別とかしてないつもりだったんだけど。気付かずに何かしてたら、ゴメンナサイ」
 違う。首を振ると、人を伺うような視線が見上げる。こう言う態度が、よく言えば控えめで接客業に向くのだろうが、別の言い方をすれば蟲惑的なのだ、特定の人種にとって。
 「Kちゃんは俺を女好きと思ってるだろ」
 微妙に話の矛先が変わったようで、安心した酔っ払いが笑う。
 「それは間違いないだろ。時子ちゃんが居るって言うのに、何人、別の女の名前聞いたやら。基本的にはああ言うのはよろしくないと思うよ。そりゃ多少は俺も分かるけど」
 「時ちゃんの事は本当に好きだ。いい子だし、大事に思ってる」
 「だったら、そろそろ身を固めれば?楢岡君もいい年だし……ああ。さっき言ってた、話ってこの事?」
 長沢の意外な冷静さに驚く。酔っ払ってわぁわぁ騒いでいた最中に言われた言葉を、どうやらこの男は聞いていたらしい。理解もしていたようだが、的は外れている。
 「それは…どうかな。時ちゃんも分かってるから、それはないよ。少なくとも今は。…… なぁKちゃん、俺、"女好き"な訳じゃないんだ。正確には"男も女も問わずに好き"なんだ」
 酔っ払いの顔に、盛大に疑問符が沸く。焼酎の緑茶割をちょうど口につけた格好のまま、動きを止める。時間にしてほんの数秒の間の後、妙に大きな嚥下音が響いて、胸を押さえて丸まる。妙な飲み込み方したのだろうが、あからさまな狼狽振りが逆に罪が無い。
 「痛てて……。言うタイミング悪すぎだ。…別に楢岡君の節操の無さは今に始まった事じゃないけど…」
 酒の所為で赤くなった頬に、曖昧な笑みを浮かべる。相当量酔いが回っているものの、まだ営業用の表情が残っている。
 「男と女、大体3:7で女の方が好きだ。時ちゃんとは俺なりに真剣に付き合ってるけど、もう一人気になってる人が居る。
 そもそも彼女との出会いが、その人の許だった。彼女には打ち明けたし、理解もしてくれてる。身を固める予定は当分無いよ。
 俺、さっき言ったよな。Kちゃんにいい格好したくて、身分詐称したって。ここ迄言えば分かったろ。俺の気になってる人はKちゃんだ。勿論珈琲が美味かったのもあるけど、Kちゃんが気になってSOMETHING CAFEに通い始めたんだ。分からなかったろ?」
 余程痛かったのか、胸を摩る手を休めずに頷く。理解はしているが、どう反応すれば良いのか分からない、そう表情に書かれていた。
 「−ああ、大丈夫。俺も分かってる。Kちゃんは男には余り興味ないよな。それが分かってたから言い出せなかったんだ。玉砕が分かっている告白は自棄か、何かのきっかけが無きゃ出来ないもんだよ、さしもの俺でも無理だ。今回のその、例の一件は…Kちゃんには辛かったろうけど、俺には物凄いきっかけだった。
 多少なり…分かった事が有った。まず、Kちゃん、…体験が無い訳じゃないんだな。知ってるんだな、男同士のsex」
 ただでさえ赤い顔が、青ざめたのか赤くなったのか顔色を変えて俯く。
 「俺はKちゃんがどんなメにあって、それをどう思っているかは知らないけどさ。まぁ…落ち着いてたよね。若い内なら兎も角、何も予備知識や体験が無ければ、なかなかああは行かない。肺炎になったのは蛇足だったけども。
 それにその…Kちゃんは優し気に見えて他人に引きずられる事のないクールなタイプだ。実際、SOMETHING CAFE通って長いけど、Kちゃんのマスターっぷりはソフトでジェントルな癖になかなか隙が無いよ。客に必要以上に近づかないし、近づけない。常に紳士的で理性的、声を荒げたのも見た事無い。客と痴情のもつれ的な騒動なんて尚更無い。だから俺、何年も言えずに来たけど、今回の一件でそうでもないんだってのも分かったんだ。何でその……
 乱暴した奴、庇ってんの」 
 長沢が目を丸くして顔を上げた。言葉にただ驚いたと言うよりは、心の奥を見透かされて狼狽えたように、楢岡には思えた。
 「庇ってなんかいない。俺は……言いたくないだけだ。誰にも自分の恥を」
 「そうかな」
 「……そうだよ」
 「本当に?」
 問われて言葉を飲み込む。酔っている所為か、それともこの話題の所為か、いつもはすんなりと出てくる笑顔はすっかり影を潜めていた。そこにあるのは素直な、苦痛の表情だ。
 「だから俺、流れ全体を見てて思ったんだ。早く捕まえておかないと奪われる。持ってかれる。玉砕も嫌だけど、得体の知れない奴にKちゃんを持っていかれるのは嫌だから、カミングアウトを決意した。今、言わなきゃ多分一生いえない。言うならラストチャンスだと思ってさ。
 この所のKちゃんは少し普通じゃないよ。何かこう…よく言えば活き活きしてるし、悪く言えば何かに取り憑かれたみたいだ。一体何が有ったんだか。思いつくのはあの事件くらいだもん俺。なあKちゃん、一体どうした?……もしかしてKちゃんさぁ。
 犯されて…感じちまった?」
 今度こそ本当に息を呑む。不細工な眼鏡の奥の目が見開かれて凍りつく。そのまま俯くのが、まるでyesの答えのように思えて、楢岡の酔いを後押しした。
 「強姦されて、感じちまった?イキまくった?相当久しぶりだった筈だよね。俺、同類は分かる。でもKちゃんからそう言う気配感じた事無かったから。久しぶりだったんだろ。久しぶりで、ハマッちまった?それで相手を憎からず思って…、庇ってるんだとしたら、Kちゃん割とコアな好みだ」
 傷つけるつもりなど無い。ただ少し、胸の奥の黒い感情が漏れただけだ。人が嫉妬だのと呼ぶ黒い感情が。
 長沢は、殆ど残っていた焼酎の緑茶割を一気に煽った。それでも飽き足らなかったのか、楢岡の手許の燗を引ったくって徳利ごと煽り、そのまま踵を返す。
 「ご馳走さん。楢岡君のおごりに甘えるよ。悪いけど、俺、一足先に帰る。お休み」
 「お、ちょっ。Kちゃん!」
 慌てて後を追う。宴の途中のレシートを掴み、自分の財布に五千円札が有った事に感謝しながらレジに出し、釣りはいらないと叫びながら店を出る。入り組んだ立地の戸口に飛び出すと、100m程先に見慣れた姿があった。駆け足に近いような早足で去る逃亡者の背中に、まだ殆ど素面の楢岡は容易に追いつく。その寸前で、逃亡者のほうが崩れた。
 大きく左にかしいで、壁にすがる。丁度、小さなトンネルに差し掛かったところで、長沢が手を突いたのはむき出しのコンクリートだった。ひんやりとした感触が、熱い身体に心地よかった。
 鼓動が跳ね上がっていた。最後に煽った焼酎と日本酒が効いたのか、視界がぐらぐらと揺れ動く。次の一歩が上手く踏み出せずにバランスを崩し−−た所で大きな掌に後ろから支えられた。
 「無理だKちゃん。そんなに酔っ払って走るなんて自殺行為だ」
 走ってなぞいない。帰りたかっただけだ。聞きたくない事に耳を塞ぐ為に、帰りたかっただけだ。手を払いのけて進む。上手く歩けるのはほんの数歩で、またバランスを崩して支えられる。腹が立った。不甲斐ない自分の頭と足に。
 「離せよ、歩いて、帰る」
 「無理だって!悪かったよKちゃん、今のは俺が悪い。ごめんなさい」
 謝る事は無い。その言葉が出ずに首を振る。
 あの酷いイベントの最中、快感を感じていたのは冬馬だけで、長沢にあったのは苦痛と恐怖だけだ。あの時の事は、今もはっきり断じられる。犯人に媚びたのは感じていたのではなく、単純に苦痛から逃れたかったからだ。だが。
 今はどうなのか、彼自身にも分からない。幾度と無く無意識の中で反芻されたその行為に今は、彼自身が納得できない感覚が入り込む。快感迄行かない奇妙な疼きがノイズのように存在する。その存在は否定できない。だが。
 冬馬を庇っている?犯人だから?彼に感じたから?それは、違う。
 楢岡の手を引き剥がそうともがいては、バランスを崩して支えられる。そんな事を何度か繰り返し、気付くと背中にコンクリの感触が有った。
 「無理だって、Kちゃん。少し落ち着け。息整えて。落ち着いてから通り出てタクシー拾おう」
 酔いのせいで熱い体に、コンクリの冷ややかさが気持ちよかった。仕方なく、言われるとおりに頷く。呼吸を整える。酒の匂いのする白い蒸気が立ち上った。
 身体を前方から掬い上げるような形で壁に押し付けた楢岡の鼻先に、長沢の呼気が蒸気となって立ちのぼる。相当なピッチで多種の酒を煽ったのだ。呼気には色濃い酒の匂いが漂っていた。カクテル、焼酎、日本酒。混ざってしまうと、結局はエタノールの匂いだ。長沢の酔いを感知するのと同時に、近さに気付いた。
 長沢の呼気が胸元で渦を巻く。長沢は、今自分の腕の中で、自分に頼って立っているのだ。それを急に実感する。じっと見ていると、ぼんやりとした目が持ち上がった。
 いつもは度の強めの眼鏡の中の瞳が、今はレンズの上から、上目遣いに見上げていた。
 そろそろと顔を近づける。拒まれないのを確認しながら、ぼんやりとした視界の中にゆっくり潜り込む。鼻が触れ、ひげの感触を捕らえ、唇が唇に辿り着く。
 緩慢な動作で、じりじりと辿り着いて尚進む。髭に包まれた口許を、ゆっくりと覆う。
 感じたから、庇ってるんだろ?
 違う。
 本当に?
 言葉の余韻に痺れたまま、長沢はされるがままに唇を合わせた。違う。舌を絡ませる。感じたのは酒の味だった。

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