□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 店内の片付けもそこそこにSOMETHING CAFEを出る。
 楢岡を店の外に追い出し、店内で着ていた服を放り出して新しい物に着替える。週の初めに楢岡と約束して四日、今日の日の為にほぼ徹夜続きでかき集めた資料と、訪問先への付け届けをトートバックに放り込む。最低限の身だしなみを整えて飛び出すと、勝手口の外で待っていた楢岡が酷いなあ、とぼやいた。
 「わざわざ迎えに来たって言うのに、外で待たせるなんて、時ちゃんでもしないぜ」
 それは当然である。時子は楢岡の三年越しの彼女で、結婚も近いと思われている存在だ。楢岡が彼女の部屋にいようが、彼女が楢岡の部屋にいようが、それはいたって普通の事だ。だが。
 四十六の男を捕まえて「眠り姫」なぞと口走る男を脇に置いたままで、平然と着替えが出来る程には長沢は割り切れていない。
 SOMETHING CAFEの床で寝ていたのは僅かの時間だったようで、半蔵門線の神保町駅に着いたのは8時を少し過ぎた頃だった。鷲津宅の最寄り駅は川口だと言うから、京浜東北線に乗ってしまえば20分もかからない。半蔵門線に飛び込んで一息つくと、楢岡が長沢の荷物を覗き込んだ。
 「何よコレ」
 「鷲津さんの資料と俺の追加資料」
 「だけじゃないでしょう。何か色々入ってるな」
 「鷲津さん所、お子さん二人いるって聞いたからさ、彼らにプレゼント。奥さんに何か買って行くと鷲津さんに怒られそうだしね。愛妻家だろ?」
 不安げに見上げられる。
 相変わらず。楢岡はそう思って苦笑した。
 確かに子供が二人いると言った覚えは有るが、夫婦仲については一切伝えた覚えはない。子供達が小学二年生の長男と、まだ四歳になったばかりの長女だとも、ましてや、バックの中の苺帽を被ったキャラクター商品と、よく光るカードのケースの中身がどうやらお気に入りらしいなどと言う事も、楢岡は一切言ってはいないのだ。
 最寄り駅の川口に着く。楢岡は鷲津に携帯で着いた由を告げた。受話器から子供たちのはしゃぐ声が漏れて来る。時計を見る。
 時間は8時40分を過ぎた辺りで、長沢は首をかしげた。最近の子供達は随分と夜更かしだ。昔だったら、子供の消灯は大体8時と決まっていたのに。
 楢岡につれられて川口の街を進む。駅から徒歩十分弱、建売住宅の並ぶ一角で楢岡がここ、と指し示した家屋は、壁も屋根もオレンジ系の、可愛らしい住宅だった。

 ねぇ、ここ。ここが良い。

 どきん。
 不意に胸が高鳴った。弾んだ声が、甘えるような高い声が、耳の中に蘇る。
 あれは二十年近くも前の事だ。瞳美が生まれて二年後の三月。第二期募集締め切り間近と言う建売住宅を見に行ったことがある。諸所の理由で購入は見送ったのだが、可愛らしい桃色系で纏められたその住宅を見て、同じような色の頬で笑った妻が、瞳美を胸に振り返って言ったのだ。
 ねぇ、ここ。ここが良い。だって可愛いじゃない。ねぇ、ここにしよ?
 そんな単純に、とぼやく長沢に、重ねてそう告げた妻の姿が、声が。不意に胸に蘇った。もう二十年も前の妻の声が、つい今しがたの事のように耳の中で繰り返される。思わず瞼を閉じた。
 楢岡がチャイムを押す。インターホンに鷲津が出るのとほぼ同時に扉が開いて、小さな女の子が零れ出て来た。靴下を履いただけの足で、土間から二歩ほど踏み出して止まる。開いた扉の向うで、こちらは駆け出す事を踏みとどまった男の子と、半笑いの女性が見守っていた。
 まだ出来たての、澄んだ瞳がくるりと長沢を見上げる。
 お父しゃん。そう呼ばれた気がした。
 「Kちゃん?」
 同じ目の高さに蹲る。驚きに丸くなった瞳をじっと見つめる。
 「こんばんは。お嬢ちゃんのお名前は?」
 「さくらー」
 マスコットのぬいぐるみを差し出すと、"ら"の口のまま笑顔になる。そのまま目線で訊ねて来る。長沢は頷いた。
 「さくらちゃんのだよ」
 ぎゅうとマスコットを抱きしめる彼女の頭をそっとなでる。そのまま抱き上げようとした所で、扉の中から男の声がおい、と叫んだ。
 「ぱーぱー」
 頭と同じ大きさのマスコットを両腕に抱えた小さな塊が、扉の中にまろび入る。スラックスを履いた父親の足にしがみ付く。目線を上げると、半笑いの女性といつもどおりに険しい表情の鷲津が並んでこちらを見ていた。
 妙に固くなった空気から、自分がしたミスを知る。慌てて立ち上がり、きょとんとしている楢岡の脇に並んで頭を下げる。鷲津は娘の頭に手を置いたまま動かなかった。
 「失礼しました。初めまして。長沢と言います。えーと、その……」
 女性が吹き出して、夫の肩を叩く。
 「いやねぇ。兎に角中にどうぞ、ご挨拶はそれから改めてしましょ!」
 
 建売住宅はコンパクトな4LDKの造りになっていた。二階に居室が三つとベランダ、一階にリビングと水周り全てが収まり、小さな庭がついていた。
 時間がもう九時を回っている事も有り、子供達は直ぐに寝室に引き上げる事となった。
 お兄ちゃんの手にそっとカードを置くと、不機嫌そうだった頬に光が点る。二人しかいない兄弟で、どちらかが優遇されてそれを快く思う子供はいない。しかし、物を貰って直ぐ機嫌を直すのは沽券に関わる程度には、既に自尊心が芽生えているのだ。複雑な表情で長沢を見上げる視線に、不意にくすぐったくなった。
 「岳斗くん、甘いものは好きかな。おじさん、お店をやってるんだ。今度お父さんと一緒にケーキでもパフェでも食べに来てよ」
 目を丸くしたまま父親に視線を運ぶ。父親が頷くと、初めて頬に笑みが広がった。うん、と答える笑顔にはもうこだわりはなかった。
 子供二人を連れて母親が二階に消える。寝かしつけて来るから、後はよろしくね、と言葉ではなく伝える仕種は、どの家庭もそう変わりは無いのだと長沢は思った。
 夫婦間のやり取りを凝視していた事に気づいて、慌てて面を伏せる。全く、俺はどうかしている。心中で舌を打った。
 先週末に全ては終わった筈ではないか。十数年も引き摺って来て、相手に解決を求められてやっと腰を上げたのだ。判断は遅過ぎた。
 それでも、どうにか自ら納得して離婚届に判を押した。それを娘に託しもした。自ら望んだ事ではなくとも、兎にも角にもやっと決心した結末だった。納得づくの事だった筈ではないか。だと言うのに。
 赤の他人の少女の面影が、かつての娘に重なる。ささやかな家庭が、自らのかつての家庭に重なる。胸の中に広がったのは形容し難い、寂寞とした想いだった。どうしようもない後悔と喪失感。情けなくて腹が立った。
 女々しい。何と女々しい。自分から少しも動かなかった癖に。全てを相手任せにして逃げた癖に。結果が思い通りにならなかったら今度はうじうじと後悔か。何と思い切りの悪い卑怯者なのか。
 遥か昔、長沢は鷲津の側(がわ)にいた。妻がいて、愛らしい子供がいて、家を構え、一生家族を守って生きて行くのだと思っていた。それなりに自らの属する組織を愛し、上司を盛りたて、部下に気遣い、自分の役目を日々一生懸命果たしていた。いつまでもその日々が続くものと思っていた。思っていたのに。
 あの日々が消えた時の事を思い出すのは辛過ぎる。その過去を受け止める度胸が無いから逃げて来たのだ。ずっと、逃げ続けて来たのだ。
 「さて」
 低い鷲津の声に思考をちぎられる。はっとして面を上げると、TVの前に組まれたソファセットに座っている二人の前に、鷲津がコップを並べる所だった。
 床に無造作に投げ置かれた楢岡持参の缶ビールをその脇に並べ、恐らくは奥さんの手作りの皿を台所から運んで来る。手伝おうと立ち上がり掛ける長沢を、鷲津がじろりと目で制した。
 「女のお子さんがいらっしゃるのねと舞…ウチのが言うんだが、そうですかね、長沢さん」
 険しい瞳の色に、ソファの上で居住まいを正す。頭を下げると、横に座った楢岡から溜息が漏れた。
 「さっきはすみません。その…つい娘の小さい頃を思い出して反射的に……」
 「ああ、本当に娘さんいらしたんだ」
 はい、と答えたまま俯く長沢の脇で、楢岡がビールのプルタブを引く。コップに移さず、そのまま口をつける。社交辞令通りに鷲津が娘の年齢やら家庭の事情やらを聞き始めるのを無視して、皿の上の物を一つつまんで口の中に放り入れる。鷲津が小皿と箸を差し出した。
 「何だよ楢岡。お前、何か怒ってないか?」
 差し出された箸と小皿を受け取ってそのままテーブルに置く。そりゃね、と呟く声が不満気だった。
 「全部知っている身としちゃ、もうさっきからモニョりっ放しですわ。
 先週末、偉い美人の誰かの奥さんがSOMETHING CAFEに来たと思ったら、週明けには離婚だって言うじゃない。俺としちゃこっそり心配してた訳よ。
 同じタイミングでその人がさ、俺が渡したお前の資料に没頭するのは有り難いっちゃ有り難いけど、異様なハマり方してて、SOMETHING CAFEの従業員…て言うか主に早紀ちゃんに、マスターが無理し過ぎで心配ですと相談受けちゃう。まぁ、俺としちゃ資料を渡した手前、複雑だよね。
 鷲津もSOMETHING CAFE行ったから多少は分かってたと思うけど、マスターが土気色してた理由は大体そこらに有る訳。で、極め付き。
 この家来た時から横でどんどん凹んでく奴いるし、親馬鹿のお前は娘の事で不思議な怒り方してるし。もう本当に夫婦とか家庭とか言うのって厄介で嫌だな。俺一生結婚しないって今決めたわ」
 鷲津と長沢の両者が驚いて息を呑む。改めて互いに顔を見合わせて、鷲津の方が頭を下げた。
 「申し訳ない。あいつらにまで気を遣って貰ってすみません。お礼を言うのが遅れました」
 「あ、いえその。俺がいきなりさくらちゃん抱き上げようとしたから。すみません、唐突でした」
 ビールを一缶、早々に空けた楢岡が次のプルタブを引き、長沢の前のコップに注ぐ。慌てて長沢がそれを制した。
 「申し訳ない。俺、この状態でアルコール入れると、多分話する前に潰れます。潰れるのは話の後にしたいんで、アルコール以外のもの貰えます?何だったら俺が何か入れても」
 茶で良ければ、と鷲津が湯飲みと急須を持ってくる。注がれたお茶は、今朝方、古本屋店主の所で飲んだ物とは全く別物だったが、長沢に不満は無かった。不満があるとしたらそれは飲み物ではなく、脇で妙な笑顔を浮かべている男の事だ。
 すっかり機嫌を直した楢岡が、穏やかになった鷲津と長沢の間の空気を満足気に眺めているのが、少しだけ癪に障る。妙に余裕を持って、少し遠くから見守っている態度が、SOMETHING CAFEで見せる物とは微妙に違う。いつもの楢岡を作り物とは微塵も思わぬが、恐らくはこちらの方が、より自然体に近いのだろう。
 広いとは言いがたいテーブルの一角に、鷲津の資料が置かれる。資料を広げる関係で長沢はソファから降りてカーペットの上に直に座る。変わりに鷲津をソファに乗せて、さて、と誰からとも無く口火を切る。楢岡がぱん、と手を叩いた。
 「で、Kちゃん、何が分かった」
 うん、と長沢が言い淀む。鷲津にちらりと目をやって軽く頭を下げる。鷲津が目を丸くした。
 「御免なさい。先に謝っておきます。俺は素人だから、プロの出す結論とは自ずと違うかも知れない。でもこの四日、素人は素人なりに調べて見て、色々分かりました。この一連の事件に対する俺の考えも固まったし、俺なりの…結論も出ました。その、鷲津さん、貴方には本当に失礼なんだけれど」
 鷲津は特段、何の反応もしない。楢岡の方が楽しげににやりと笑った。
 「この事件は貴方では……いえ。地方公務員には手に余ります。これは、日本全国を網羅する警察組織、…例えて言うなら米国のFBIのような組織が当たるべき事件です。でも、良くご存知の通り、残念ながら日本にはそうした機関自体が有りません。恐らく先方はそうした事もよくよく理解した上で行っている事件なんでしょう。敢えて言うなら。
 これは公安調査庁が手がけるべき事件です。鷲津さん、決して悪意を持って言うんじゃありません。この事件はそちらにお願いして、貴方は手を引くべきだ」
 しん、と空気が静まった。
 当たり前だと、長沢は心中で深く溜息をついた。
 殆ど独自調査の形で進めている事件を、素人に貴方の手には余るとずばり断じられたのであるから、怒りの度合いは想像に難くない。素人が何も分からずに戯言を言うんじゃないと一喝されて当然である。長沢はそうした怒号が到着するのを待って深呼吸をする。同じリズムで鷲津が大きく息を吐いた。
 「そうですか。
 貴方も楢岡と全く同じ結論に辿り着いた訳だ」
 一瞬、その意味が理解できずに言葉を脳内で反芻する。
 怒号がない事にも、簡素な承認にも驚いたがそれより何より。同じ結論、と言う一言に度肝を抜かれた。
 目の前に並ぶ二人の男の顔を見返す。冷静な鷲津の顔の横で、楢岡が小さくVサインを出してにっと笑った。
 

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