□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 誤解されちゃ叶わない。
 冬馬の抱擁から開放されて、一息ついた身体が言葉を連ねる。
 「俺の考えを知っておいてくれ。俺の方は多分、お前さんの革命に関する価値観や考え方は大雑把には掴んでいる。思想の根本が違うから完全に理解するのは到底不可能だが、まぁ大雑把には。だからお前も俺の事、大雑把に掴んでおいてくれ。主に俺の思想…?かな。そんなに大した物は無いから。
 まず世代的に。これを冬馬に言ってもどこまで有効なのか分からないが、俺はいわゆる"三無主義"世代だ。
 無気力/無責任/無関心と、団塊の世代に散々揶揄されたモンだ。で、俺達の共通の敵はと言うと、その団塊の世代。戦後復興期を盛り立てた戦士だの、戦後を支えた経済力の元だのご大層に言うけど、あいつらが日本を駄目にしたと、少なくとも俺はストレートに思っている。
 GHQ(General Headquarters:この場合は連合国軍最高司令官総司令部の事)の戦後政策がばっちり効いて、日本は悪だと洗脳された(War Guilt Information Program)団塊どもが教鞭をふるい、徹底的な平和教育がなされた。俺達がその教育を食らった第一世代と言って良い。日本人が銃を持たないのは、持たないのではなく持てないんだ。子供の頃に戦いは凡て悪だと散々教え込まれているからね。俺なんかその見本。俺は多分苛められっ子だったと思うんだが、一度も相手を殴った事が無い。殴られっぱなし、痛い目に合いっぱなし。自分の身も守れない。
 そう言う子供が大人になるとどうなるか。ギリギリの所で自分の一番大事な人に、手を上げたりしちゃうんだよな…」
 身振り手振りで話す長沢を、ただじっと見つめている。
 思えば、長沢が自分の事を話すのは初めてだ。最初に長く語り合った時は冬馬の身の上話だったし、次の時もその次も、ずっと"革命"関連の話だった。長沢の家族の話が入った時も、彼自身の事は殆ど聞いていない。長沢啓輔と言う個性が出来上がった過程も、今現在の価値観も、本人の口から直接聞くのはこれが初めてなのだ。
 心のどこかで、なぁにこれから幾らでも聞けるさ、と自分が笑うのを青年は感じた。何せ彼は同志なのだから。これからずっと伴に歩む、同志なのだから。
 「……冬馬、俺は楽しい話をしてる憶えは無いんだが」
 つい、口許が緩んでいたのを引き締める。
 「全体主義を知らずに育った。公とか愛国心と言う物を知らずに育った。ああ言う教育は止めた方が良い。初めて俺が自らの属する団体を愛する事を知った時の呼び名は、"愛社精神"だった。あっと言う間にのめりこんだね。
 知りもせず、それと意識もしないままに頭の上まで浸かってた。全体主義など持っていない筈の俺が、新都銀行の為なら何でも出来た。その為に犠牲者が出ても、本気でそれがどうした、だから何だと思ってた。仕事なんだから。当行の利益の為なんだから。お陰で貰った仇名が"ジェノサイダー"だったわけだ。」
 その仇名を、冬馬は単に勲章と受け取った。彼の所属する銀行と言う組織を救い、自らの力を知らしめた、その手腕に送られた勲章だと青年には思えたからだ。だが当の長沢は、その名にかつて動揺した。その動揺が青年に、それは勲章ではなく傷なのだと気付かせた。言葉よりもっと巧みに、雄弁に。
 「そのまま浸って居れば良かったんだ。そうすれば凡て上手く行ったかもしれない。何年も経って、緩やかに回顧して、反省も償いも出来たかもしれない。でもなぁ。人間と言うのはそうそう正気を捨て切れるものじゃないんだな。ある日、夢は覚める物なんだ。そりゃもう唐突に。
 多分、今から思えば渦中の時の俺はおかしくはなってたけど上手く立ち回ったんだ。銀行も難を逃れたし、あの時代に手腕を買われて出世もした。上司の憶えも目出度かったし、部下も着いて来た。手応えも感じてた。前途洋洋だったかな。着いて来なかったのは……家族だけだった。当時はそれが許せなかった。でも今は分かる。家内は…、そうだな。マトモだったんだよ。
 話が反れた。そんな事も有って、俺は自分がおかしくなっている事に気付いて、後は何やかんやでここまで転げ落ちて来た訳だが……」
 「啓輔」
 青年の声に顔を上げる。先程まで奇妙に笑い含みだった表情が、きりりと引き締まっていた。
 「そこの"何やかんや"が聞きたい。目が覚めた時の事を聞きたい」
 「それは……長くなるし、主題に関係ないから」
 「聞きたい。お前の事。全部知りたい。俺が会う前のお前の事、俺が生まれる前のお前の事。全部知りたい」
 そりゃまたご大層だな。笑い含みに吐き出される言葉は軽くは無かった。
 以前、長沢は言ったのだ。
 いつか……お前には話すよ冬馬。お前には…話せると思う。 …だがすまん。それは今じゃない。
 恐らくは今もその時ではない。冬馬とて良く分かっている。自らの現在の状況と現在の思想を語るのに手一杯で、その思想が築かれて来た過去を話すだけのゆとりは、今の長沢には到底有りはしない。ジェノサイダーと言う単語に動揺した日から、僅か一週間足らずしか経っていないのだ。
 自然な動作で反らされる目線を追う様に、青年の大きな掌が伸ばされる。俯きがちに反らされる面を、やんわりと持ち上げる。青年の手につられて移した長沢の視線の先で、いつも無表情な瞳に浮かんでいたのは笑みともつかぬ奇妙な、それで居て満足気な色だった。
 「いつでもいい。俺はいつまでも待ってる。いつまででも待てる。だからいつか、全部聞かせて、啓輔。俺やお前が死ぬ前に」
 饒舌な銀色の瞳。無表情などと、かつて思っていたのが不思議な程だ。
 「…ああ。そうだな」
 「約束」
 「約束は、しない。叶う確証の無い約束はしたくない。ただ、お前には話すよ。そのつもりだ」
 緩やかに青年の腕を払う。お互いの空になったカップを片付けようとすると、その手を取られる。おかわり、と言う低い呟きに、別の意図を感じたが受け流してドリッパーを引き寄せる。
 「ここに辿り着いて、過去の凡てに蓋をした。逃げ切れたと思った10年の後に今が有る。結局、過去から逃げるなんて無理な話だ。自分は変わらない。慕情も未練も捨てられない。そう自覚して気付いたよ。
 今の俺に愛社精神は無い。あれ程のめり込んだ新都銀行は、今はもう遥か遠い過去だ。やりつくしたと言う感覚だけが残って、今は愛着も未練も無い。
 この店に関しては…やや複雑だが、俺の物であって俺の物じゃない。いづれ次に引き継がれて行く物だ。大事だし愛着は有るが、それはいずれ捨てるべき…継がれるべき物だと覚悟している。では、俺が今よすがとするものは何かと問われると。それは間違いなく、この国だと思う。
 言葉にすると嘘っぽいし、微妙に違うが、つまりはこう言う事だ。
 俺は、日本と言う恵まれた国に生まれ育った自らの幸運に感謝している。ここを理解しない日本人が多いのは情け無いよな。
 アフリカの乾いた大地で飢えて死ぬ事も無い、コッチェビのように寒さで指を失う事もない、民族浄化の名の下に皆殺しになる事も、体制を守る為に粛清される事も無い。お前のようにゲリラと軍と両方から追い立てられて、ジャングルを彷徨う事も無い。どころか。
 病気になれば格安の治療費で薬が貰える。入院も即日出来る。緊急体制も万全だ。庶民がレジャーに興じられる。家も持てる、車も持てる。贅沢三昧だよな。階級差別も宗教差別も民族差別もない、犯罪発生率は戦後ずっと下がってる。上手く立ち回れば何とでもその日に生きる算段が付く。これらは凡て、文化的に経済的に富んだ国のなせる業だ。こんなに恵まれた国が、地上のどこか他に有るかな?
 俺は、この国のこの状況が、大事なんだ。比沙子が生き、瞳美が享受するこの恩恵を壊したくない。
 俺は自分勝手な男だよ。公に尽くす事を知らず、せずに生きて来た。けれどやはり思うんだ。日本を守りたい。公の為じゃない。この二人を守る為に守りたい。俺にもし愛国心と言うものが有るとしたら、それはきっとこの二人の為だ。この二人の為なら、俺の手を汚すくらいどうって事ない。
 そしてその日本はと言うと。酷い有様だよな」
 冬馬には良く分からない。司令官達が声を揃えてこの国の惨状を云々しても、インフレ年率7600%、失業率70%の国から来た冬馬にその感覚が分かる筈がない。豊かで穏やかな微温湯、そうとしか思えない。
 「プエブロ・ホベンに慣れた冬馬には伝わり辛いだろうが、富める国には富める国なりの危機がある。
 日本のGDPはざっと560兆。毎年の国家予算は一般で80兆、特別で380兆、並べて大体200兆余り。その内の税収はざっと40兆。ODA(政府開発援助)に使われる金が100億〜120億ドル、1兆円台を近年徐々に下降。
 1945年、第二次世界大戦…大東亜戦争終結時、ODAを受ける側だった日本は、54年、ビルマへの援助を皮切りに拠出する側となり、60年代以降、今のシステムに変って来た。現在、世界で五位のODA拠出国家だ。一番日本がODAをしている国は、世界で最も覇権主義の反日大国、支那。現在までに有償、無償あわせて3兆3千万程援助している。
 国際舞台に立てば、192加盟国によって成り立つ国連の分担金のなんと20%近くも日本一国で払いながら、常任理事国にもなれない。
 経済大国と呼ばれ、その実米国の半植民地状態。年次改革要望書に従って会社法も変え、公的機関も変えて米経済を下支えし、農作物さえカレントアクセスで米に支配される。アジアの国々に多くの援助をしながら、微々たる影響力しか持てず、アジアの国……はっきり言ってチャイナとコリアンだけ…に未だ呪われ続けている国。教育さえ、近隣諸国条項に縛られてままならない国。
 これが今の日本だ。容易く先が想像できるよ。
 ずっと搾取され続ける未来。いずれ他の国に飲み込まれて消える存在って事。現状で行けば、日本を飲み込むのは米ではなくチャイナ。支那かも知れない。
 一千億以上の技術協力、7万人を超す留学生の受け入れ、日本の物では無い遺棄化学兵器の処理費用の支払い等等、日本が幻の支那大市場を夢見てせっせと貢いだ金は、国民に知らせる事も無く、感謝もされずに使い尽くされ、余剰分は支那から他国へのODAに使われている。
 いずれはこの国に呑み込まれて消える未来だとしたら、本当に間抜けな話だ。
 全世界の8%ものGDPを叩き出すこの小さな島国は、島国だからこそ生き残って来られたんだ。お互い同じ価値観を持つ農耕民族で性善説。以心伝心、沈黙は金、黙り合い、察し合って育ってきた文化だ。グローバルな時代になって、略奪と殺戮を大航海時代などと呼ぶ性悪説の人種に、そのままで敵う訳が無い。"国際社会様"にたかられ、むしられ、累積赤字が800兆になっても、まだ理不尽に搾り取られているのが現実だ。そして日本は、むしられながら、その強盗達に気を遣い、ひたすら笑顔で土下座を続けている状況なんだ。
 戦前はこうじゃなかった。常に神風が吹く、神の国、秋津島。日本は神国だったんだ。それなのに。第二次大戦、大東亜戦争。その戦争にたった一度負けただけで、日本は根底から変わってしまったんだな。」
 長沢の並べ立てた数字は良く分からない。ただ、他の部分は実感が出来た。穏やかでお人よしのこの国に、いつまでも同じ未来があるとは、冬馬にも思えなかったからだ。闘争心の欠片も感じない若者と、富める国の裏側で増大する働かない人種。真っ先にゲリラの餌食になる人間が、この国ではのうのうと資源を消費している。
 しかもこの国は、リーダーと思える人間と、そうした非生産層の人間の命の重さを同等と言い切る。保険金と言う命の価値に違いはあるようだが、重さは同じだと言い放ち、時には人よりペットに重きを置く姿勢。冬馬にはその脳天気さは到底理解が出来ない。
 闘わずに、求めずに、恵みを得られる状況など長続きする訳も無いのに。この裕福な国は、恵まれた環境を守って闘う事もせず、他者に奪われても抗いもしない。自滅の道を喜んで辿るこの国の価値観が理解できないのは、自分が異邦人だからだと冬馬は思っていた。だが、どうやら違う。長沢の言葉を聞く限り、彼もそれらが理解できない。であるなら恐らくは、本能が有る者には理解ができない、それだけの事なのだ。
 「かつての日本を尤も脅かしたのは露西亜だった。覇権主義の露西亜が南下して来ると言うのに、無頓着なばかりか国土を露西亜に売り渡して私腹を肥やそうとする愚かな王族の納める朝鮮が日本の上に垂れ下がっていた。日本がやたらと悪役にされる閔妃(みんび)暗殺の下りもきちんと理屈が有って、主な理由は今言った露西亜の南下政策さ。
 日露戦争があって、世界中の予想を裏切って日本が勝った時初めて、欧米の白人種は黄色い猿が人間で、思いの他能力が有ると気付いた。気付いて飛び上がった。恐れた。得体の知れない強国日本は敵になった。オレンジプランが引かれて、ABCD包囲網が引かれて、ハル・ノート、真珠湾、二次大戦となる下りは今は省こう。唯一つ言えるのは、この二次大戦…大東亜戦争が、俺が子供の頃に習ったような"侵略戦争"でも何でもなかったって事さ。そんな事を思い込んでいるのは支那と朝鮮と、そして当の日本だけだよ。
 問題は日本なんだ。ABCD包囲網が引かれて、日本が孤立したその時と、今に何の変わりが有る?日本の上には今も露西亜が有って、脇にはとんでもない覇権主義の支那がある。愚かな朝鮮は相も変わらず愚かな上に、今は核まで持っている。凡ての国々が其々の国益の為に動き、奪える場所からは奪おうとする。だが、それはおかしな事じゃない。手の触れる物を握るのはただの本能だ。奇妙な理性で理屈をつけて、握らない方がどうかしている。そして。
 握らないのは世界を見渡しても日本だけだ。たった一度の敗戦に牙を折られ爪を抜かれ、闘争本能さえ失った日本だけだ。奪われ続け、握られ続けるのは豊かで平和な、この日本だけなんだよ。そして何より最悪な事に。
 平和に爛れた日本国民は、この危機を気にも留めない。誰も知らない。気がつかない。気にすらしていない。
 ……、俺はこの国を守りたいんだ」
 不意に、ベージュの光に落ち着く高級ホテルの一室で、大貫が吼えた事を思い出す。
 死に掛けたこの国を、生かすも殺すも我々が決める。どうせ助からぬのなら一思いに。引導を渡してくれよう。
 その時は大仰だとしか思わなかった。芝居がかった一幕だとしか感じなかった。だが今、日頃は穏やかな同志に語気荒く同じ事を語られて、急に言葉は現実味を纏った。
 長沢は守りたいと言い、大貫は引導を渡すと言う。真逆の言葉なのに、冬馬は感じる。二人は同じ事を言っているのだ。選んだ言葉が違うだけで、その中に息衝く思いは、恐らくは同じものだ。貧しい国の危機。富める国の危機。それを回避したいと思う人の心。素直に感じた。
 司令官の為に冬馬は居る。司令官の命のままに革命へと冬馬は走る。それがペルーの革命でも、日本の革命でも、どちらでも彼には大差は無かった。だが今。改めて思う。ペルーの為でなく、MRTAの為でなく。日本の為に戦おう。いや、それも違う。恐らくは……。
 「自らの周りを埋め尽くす富を、幸運を、日本人は凡て当然だと思っている。死に掛けた者にしか命の有り難味が分からないのと同じで、今の日本人は誰一人として平和の有り難味を知らない。だから日々身分不相応な文句を垂れ流して生きている。ニート対策?モンスターペアレント?モンスターペイシェント?簡単な事だ。
 一回戦争をすれば、そんな物は皆なくなる。不景気?そんな物は軍需産業で凡て吹っ飛ぶ。今の我々に必要なのは覚醒だよ。本能への回帰だ。平和に腐った理性ではなく、動物としての、ケダモノとしての本能だ。テリトリーを守り、自らの愛する者を、子を死守し、敵を腕力で、武器で退ける、そうした本能を取り戻さなきゃ駄目だ。だから。今の日本に必要なのは。
 戦争が出来る法律と、その法律を施行し、暗殺を行える指導者。国益の為に自らの手を汚せる指導者だ。だがそれすら今の日本にいないなら。
 今のこの腑抜けた日本で、お前達のように立つ者を、俺は尊敬する。義の為に己が手を血で汚すものを、地獄に落ちる道を選ぶ人間を誇りに思う。俺がその任の一端を担えるなら、出来る事は凡てしよう。どうせ、誰の為にもならない命だ。存分に使おう」
 互いの手にもった二杯目のコスタリカ・ヴィノ・デ・アラビアのカップが、ちん、と高い音を上げた。
 一仕切り語り終わった長沢が、冬馬の手の中のカップに自分のカップを当てたのだ。琥珀色の液体が波立つのを上手く飼い慣らして掲げて見せる。その仕種につい笑った。
 カップの中身がウォトカでもブランデーでもウイスキーでもワインでもない所が、長沢らしい。共にカップを傾けて、香りと味を共有する。それだけではない。
 今は恐らく奇妙な同類意識を、言葉に出来ぬ似通った空気を共有していた。
 長沢は、自身を戦争を知らぬ世代と言った。闘いは凡て悪だと教え込まれた世代と言った。彼の言葉通り、傷の無い手は、銃もナイフも握った事はない。どころかその拳は人を殴った事も無いと言う。無いと言うのに。
 「啓輔……嘘は駄目だ」
 黒縁眼鏡の奥の瞳が持ち上がる。穏やかな双眸。青年は右手にカップを持ったまま、左に座る長沢の頬に手を這わせる。やんわりとカーブを辿り、ぐいと顎を掴み寄せる。
 食い込む指に微かに薄められる瞼は、それでも閉じる事はなかった。
 「殊、ここに関して俺に嘘は通じない。理屈じゃない、感じるから。
 お前の手は武器を握った事もない。人を殴った事すら無いと言う。なのに。お前は何人も殺して来た。暴力ではなく策謀で、何人も殺して来た。殺している時のお前には、殺す理由があった。正義はお前の元にあった。お前はそれに傷つき、苦しみ…今も苦しんでいると言う。それは嘘じゃない。でも。
 お前はそこに敵はいなかったと言った。過去に蓋をして逃げて来たと言った。でも、お前が本当に逃げたかったのは、過去じゃない。お前が逃げた理由は懺悔じゃない。
 お前が本当に逃げたかったのは」
 黒縁眼鏡の奥を覗き込む。柔和な瞳を覗き込む。褐色の虹彩の内側を、その奥を。

 ―― お前自身からだろう?

 「お前自身。理由さえあれば何でも出来る、ジェノサイダーから逃げたんだろう。今でもその時と全く同じ事を、恐らくは親しい人間にも出来る自分に蓋をしたかったんだろ。殺した事を後悔しながら、必要とあればお前は厭わない。手を汚す事など何とも無いと言う。―― 理由さえあれば。大義さえ有れば。迷わずに人を殺して何とも思わない」
 穏やかな瞳は、そのままの色でじっと青年を見つめている。否も応も無い。それが何よりもの肯定だった。
 ぞくり、とした。
 手の中の静かな表情に、身体の奥が熱くなる。性的な快感ではない。もっと奥の、もっと根源の、どうしようもない高まりを感じる。この男は。一体何処まで俺の望みを叶えるのか。何処まで俺の思いを凌駕するのか。
 「お前に感じた血の匂いが何か、今やっと判った。お前は――、俺と同属の人間だ」
 髭に包まれた頤をにじるようにずらして、やんわりと手を解く。目線を外す瞬間に恥らうように笑って、珈琲カップに唇をつける。一連の動作は、余りにもさりげなくて自然だった。
 たった今まで、自らの思想や過去や、生死について熱く語っていたとは思えぬ程に、穏やかで自然だった。
 カップに口をつけて一口すすり、ゆっくりと深呼吸をする。呼吸の最後に満足気に零れる、美味い、と言う呟きが耳の中に転がり込んで、青年は小さく吹き出した。
 「美味いけど、思ったよりすっきり系だなぁ、コレ。物足りないと取るか爽やかと取るかは評価の分かれる所だね」
 穏やかな笑みが向けられる。そこに有るのは動揺ではなく、不安ではなく。ましてや恐怖でも拒絶でもなく。
 確固たる覚悟と、穏やかな笑み。青年はそっと深呼吸をした。
 「……うん。そうだな。俺は好きだ。美味い」
 司令官の為に闘争を始めた。闘争する事にこそ意義が有って、闘争の場がペルーでも日本でも青年には大差無かった。だが今。改めて思う。ペルーの為でなく、MRTAの為でなく。日本の為に戦うのだ。いや、それも違う。恐らくは……。
 この男の為に。自分の為に。
 この男の居る、この男と暮らす、この国の為に闘うのだ。
 「――まずは。
 黙っておくべき事から教えてくれ。そこが真相なんだろう。言うべき事は、啓輔お得意のはったりだ。俺がそれを誤魔化しにでも使うのは時間がかかる。…今日の夜にでも改めて習いに来るよ。
 まず今知っておくべきなのは真相と、今日あいつらに"振る"やり方だ。それだけ教えてくれ、啓輔。
 俺達の足場を固める為に」
 珈琲カップを口につけたままの男が、朝の白い光の中で微笑み、ゆっくりと、大きく頷いた。
 

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