□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 
□ 折衝 □

 全員の携帯に、羽和泉からのコールが入ったのは13時過ぎ。各人の行動は迅速だった。
 最も迅速だったのは垣水第一部長で、情報に誤りは無い事と情報漏洩元は自分ではないと言う事を全員に伝えてきた。その情報が届いたのは、羽和泉の発した第一報から僅か1分後。その余りな迄の迅速さが、垣水の動揺を全員に伝え、全員にそれが感染した。
 動揺は二段階だった。一段目は情報が漏洩していた、その事自体。二段目は動議主が情報は正しいと請け負った事である。
 メンバー七人中、この情報を知っているのは多くとも三人。時と場合によって動議主及び羽和泉か大貫が知っている事が有り得るが、確定事項ではなく、最大限でもそこどまりだ。動議主より先に第三者の手によってターゲットの名がメンバーにもたらされた事は無い。メンバーにとってはすこぶる重大な事件だった。
 この三人の誰が情報源だとしても、それは大問題だ。何故なら彼らこそが、メンバーの収集元であり、彼らこそがメンバーの礎だからだ。この一件をただの情報漏洩ミスと片付ける事は出来ない。
 弁明に意味は無かった。情報が漏れた時点で、凡ての弁明は言い訳に過ぎない。誰が漏洩元であれ。
 一般人に情報を提供すべき利点など何一つ無い。漏洩元に下される裁きは粛清以外にありえないからだ。
 全員に芽生えた疑問は唯一つ。何故、一般人にターゲット情報が漏れたのか。結論も唯一つ。可能な限り早急に会議を設け、メンバー中でただ独り真相を知る筈の青年に聞かねばならない。
 
 羽和泉基の第一報を、大貫は自らのオフィスで受け取った。
 昼食ミーティングを済ませ、そろそろ提出時期を迎える予算案の最終チェックに懸っていた頃だ。ノンキャリに任せ切りにはせず、細かい数字にも眼を通す大貫にとって、雑事は純粋に雑事でしかない。舌打ちと共に携帯をとり、内容を一読する。思わず笑みが零れた。
 情報の漏洩元に、情報漏洩を伝える一報が滑稽だった所為もある。羽和泉を初めとした全メンバーの反応が余りにも予想通りで滑稽だった所為も有る。だが、大貫が笑った理由はそこではない。
 記憶力は衰えてはいないのだな。
 それが不意に笑いを呼び起こしたのだ。
 大貫が羽和泉の妾腹の子に言ったのは、全く関係ない一言だ。それが一般人に伝わって、答となった。言葉自体に意味など無い。そこを責められても、大貫に恥じる所は一点も無い。ただ。その言葉には歴史があった。
 あの男と使った符丁は、それこそ数え切れない。会話は多岐に渡ったし、他人に理解されるのを恐れて、つまらぬ物も符丁で呼んだ。一度しか使わなかった物も数え切れない。一度確認した事を忘れる人間は嫌いなので、彼に二度同じ解説をした憶えはないが、あの男が符丁を取り違えた記憶は無い。
 "今半屋"は、そんな符丁の中の一つだったのだ。特別多用した覚えもないし、該当人物とあの男に特別記憶に残るような折衝が有ったとも思えない。つまらない言葉遊びの、小さなピースの一つに過ぎなかったのだ。
 それを憶えていたのか。今なら少しばかり賞賛の気持ちが持てる。それが奇妙におかしかった。
 歳を取ったのかも知れぬ。
 大貫にとって、過去は単純に自らの軌跡に過ぎなかった。来し方を懐かしむ事も謂れも無く、わざわざ思い出さなくても忘れていない過去のあれこれを、改めて記憶の前面に持ってくる必要性も感じない。だと言うのに。最近、時々驚くのだ。無意識にかつての記憶を取り出しては、幾度と無く同じシーンを愛でている自分に。
 あの男との再会は、大貫が松江の税務署長の任からとかれ、主計局に戻ってそう時を得ない89年の事だった。新都銀行のMOF担として大蔵に入って来た彼に、最初に言った一言も覚えている。
 身分不相応だな。
 年月を経て、多少は態度に変化がある事を期待しての台詞だったが、男の反応は全く変わっていなかった。一瞬驚いた顔をして、その後にゆっくり困ったように苦笑する。敵わないなぁ、大貫先輩には。そう言って眼鏡の隙間から見上げられて、人間と言うのは一生変わらない物なのだと呆れたのを憶えている。
 東大法学部出の人間がキャリアの多くを占める大蔵省(現財務省)では、官僚の相手をする「対大蔵省折衝担当」、通称「MOF担」も釣り合いが取れるように東大法学部か経済学部出身の者が選ばれるのが普通だ。あの男が東大出では無い事を知っていたから出た一言だった。恐らくはコンプレックスを持つ一般人にとっては相当辛辣な。あの男にもその効果を期待したのに。あの男の笑みに、見慣れぬ感情など淀む様子はなかった。あの男。
 遠い昔。お互いにまだ少年と言える時代に会った、ちっぽけな存在。
 あの男。長沢 啓輔。穏やかで表情豊かで、ポーカーフェイスの―― 弱者。全く変わらない。
 折衝があったのは、「大蔵省」の時代だった。
 98年に大蔵省から金融庁が切り離され、銀行業務が大蔵管轄下から金融監督庁にスライドした。その時点で大蔵と銀行は遠ざけられ、2001年の省庁再編成でそれは完全となる。大蔵省は完全に解体されて金融庁と財務省になり、金融庁は内閣府の外局となった。MOF担と言うものは事実上消滅した事になる。
 勿論、名を変えて現在も折衝担当自体は存在するが、当時とは随分様変わりをしてしまった。かつての濃厚な官僚とMOF担の関わりは今はもう無い。
 大貫自身、数多くのMOF担に否応なく触れて来た。満足した覚えは一度もないし、優秀と認めた者も一人としていない。
 が、振り返れば最も優れていたのは、東大出でもない、見分不相応と大貫が馬鹿にした長沢と言う男だったと、今更のように思うのだ。
 当時は長沢の至らなさに随分と苛つきもし、事務官が退く程の叱責もした。不甲斐なさが腹立たしくて、わざと彼に不利な情報を流した事もある。勿論、大貫は偽りの情報を流した事などは無い。MOF担との付き合いなど、正式業務の内に入らぬのだから、嘘をついても一向構わないのだが、そこは大貫のポリシーに反した。
 行き過ぎた接待を嫌い、他省庁との予算折衝の場に引き回し、MOF担を時間外のオフィスに長々と拘留して詫びもしない。夜の街の嬌声や、女の胸や尻に惑わされない。歓楽街での秘め事を共有する事もない。そんな大貫を、殆どのMOF担は敬遠した。
 中央省庁の官僚だから、精々持ち上げて付き合うものの、実際はMOF担は官僚を見下している。彼らが敢えて官僚に傅くのは、官僚の何倍ものサラリーと、官僚接待と言う名目で夜の街を闊歩し、女を抱いても必要経費に計上できる特権を享受したいからだ。自らの銀行の未来の為に、大蔵官僚の我侭にじっと堪えている者など、実質そこには誰一人としていなかった。
 大概のMOF担がそうして大貫を敬遠し、もっと別の居心地のいい取り付く島を見つける。回りに群がっていたMOF担が一人減り二人減り、ある日すっかり眺めの良くなった大蔵省にぽつんと一人だけ残っていた。
 長沢啓輔。初めて出会った頃は五分刈りの少年だった。この男だけは、きっとずっと変わらない。そう思った。
 他のMOF担のように情報に踊らされて大失敗をしたという話もついぞ聞かず、どこぞの女に入れあげていると言う噂もなかった。ただ淡々と大蔵に来て、帰って行く。それでいて、彼の属する新都銀行が何らかの割を食ったという話も無い。穏やかで目立たず、大きく取り上げられない替わりに無視もされない。自然に他の派閥とも繋ぎを取りながら、気付くと大貫の脇に居る。物好きだなと言うと、いつもただ笑う長沢が、一度だけ言った事がある。

 ハナには自信があります。何かが起きる、ぞくぞく出来る、その匂いには敏感だ。今の大蔵で、その匂いがするのは貴方だけですよ。

 抽象的極まりない表現で、その時も大貫は下らない戯言だと一蹴した。その実深い所で納得していた癖に。
 大貫と長沢の大蔵内での折衝は、89年から96年初旬までの7年弱だった。バブル全盛期から崩壊、収束するまでの激動の時期の7年弱。まともに大蔵官僚と新都銀行MOF担と言う間柄だったのは最初の4年。以降、二人の間柄は官僚とMOF担と言う単純な物から、徐々に様相を変えて行ったのだ。
 長沢から要求した事ではなかった。徐々に追い詰められていく新都銀行の窮状を見て、大貫が独自の判断で情報を渡したのだ。
 有体に言って、当時の大蔵省には、日本国内の金に関する凡ての情報が集まっていた。個人個人の収入、資産、企業の資本、特別会計。それら凡ての情報が、余さず大蔵省に集まっていたのだ。大貫は、長沢のみならず、凡ての窮状に喘ぐ金融機関が咽喉から手を出して欲しがる情報の凡てを閲覧可能な地位にいたのだ。
 そして、情報は大蔵から新都銀行に渡る。大貫から長沢に。一切の見返りを求めず、彼に一番有用と思える情報を、大貫は惜しげもなく渡したのだ。
 主計局と言う立場を利用しての、情報のリーク。本来なら大貫のポリシーに障る行為で、イレギュラーの行動だった。幾つもの事柄を天秤にかけ、大貫が選んだのは、一介のシティバンクの大蔵折衝担当に温情を、厚意をかける事だった。他のMOF担には、一切の便宜は図らなかった。ただ一人のMOF担の肩を持ったのだ。
 長沢も、それを拒みはしなかった。拒むどころか、押し頂いて受け取り、最大限利用した。後から後から与えられる極上の情報を享受し、活用しつくしたのだ。要求も拒否もせず、当然の事のようにそれらの情報は大蔵省から1シティバンクに渡った。たった二人だけの癒着。しかしこれは中央省庁と金融機関の癒着に他ならない。
 情報の授受は直接に二人の間だけで行われた。95年までは全くの無償で、95年末期からは有償で。小さな約束事に変遷はあったが、二人の間だけで行われた事に変りはない。
 結果、多くの銀行や金融機関が経営破綻で姿を変える中、新都銀行は生き残り、長沢はその手腕を買われて出世を遂げた。二人しか知らぬ秘密は外部に漏れる事も無く、二人の周りに波風を立てる事も無かった。
 バブル崩壊の津波が穏やかになり、凡てが収束し始めていた。変化は終わりを告げつつあったのに。
 新都銀行営業部長、長沢啓輔はある日突然、忽然と姿を消したのだ。
 

 桐江一等陸佐から連絡が入ったのは業務終了の時刻だった。
 多少帰りが遅くなると家族に一報を入れ、そのまま別宅に向かう。桜田通りから国道一号線を経て、芝浦に着く。工場しかなかったこの辺りも、今ではシーサイドだのリバーサイドだのと言われてマンションが林立している。
 メガマンションだの、ギガマンションだのと言われる規模になれば、下手な町村よりそこに生き、暮らす人々は多くなる。大きな集団では近隣の付き合いは希薄になり、殆どの世帯は、隣に誰が住んでいるかさえ全く知らない。それは大貫にはこの上無く有り難い事だった。
 複製不可のマグネットキイで、オートロックのマンションロビィを抜ける。その時々で、この場所の鍵を愛人に渡して来た。最大時には同時に3個使った事があるが、現在は一個きりだ。仲が終わる時にはきちんと鍵を返却して貰い、世間一般で言う所の修羅場になった事は一度も無い。
 玄関から、突き当たりのテラスまで抜ける。眼下の景色は既に夜景だった。遠くに眺めるレインボーブリッジの灯りの向うから、客船がぽお、と声を上げた。
 今の、鍵の使用数は僅か1。合鍵のオーナーは陸上自衛隊1佐、桐江伸人、その人のみだ。
 時にはこの部屋で、夜景を眺めながら均整の取れた身体を組み敷く。33歳の陸自仕官の体躯は、充分に若く伸びやかで強靭だ。骨格がしっかりしているから多少手荒く扱ってもダメージが残らないし、経験豊富で受け入れ方も心得ている。ストレス無く、行為に没頭出来るところが非常に気に入っている。
 それに何より、自立心が強くて多忙な男だから、ドライでクールな付き合いにも文句が出ない。女のように精神的な結び付きや安定を要求する事もないし、金銭的なやり取りもほぼ皆無だ。純粋にセックスだけを楽しめる間柄は、大貫にとって最高の逸品だったのだ。
 どちらかが呼び出してここで落ち合うか、途中で合流するかしてこの部屋のドアを閉めれば、後はただ抱き合うだけだ。会話らしい会話は殆ど無く、ただ互いの肉と欲望を貪りあうだけだ。それが最高に都合が良かった。
 「伺いたい事が有ります」
 だが、今日のイベントは少々毛色が違っていた。
 いつからそうしていたのか。テラスから街を見下ろし、風に弄ばれた髪を手櫛で直しながら居間に入ると、灯りを点していない部屋の端に桐江が立っていた。いつにない強い口調が、冷静な男の感情を知らせて、少なからず大貫は驚いた。声の主に視線を運んで、再び驚く。不満だった。
 先にマンションに着いていた桐江は、一部の隙もなく制服を着込んでいた。いつもなら。
 先についていれば事が運び易いように、様々な用意を整えておく男なのに。
 桐江の言葉を捨て置いて、自らのコートに手をかける。仕立ての良いカシミヤを脱いでも、桐江はそれを受け取る手を伸ばさなかった。
 部屋の隅に有るウォークインクローゼット迄歩く。無言の大貫に、桐江が追い縋った。
 「情報を部外者に教えたのは貴方では有りませんか」
 なるほど、と思う。
 強張った表情は嘘では無い。桐江は相当な覚悟をしてこの問いを投げかけているのだ。真面目で不器用な男だから、恐らくは13時の羽和泉の一報からずっと悩んでいたのだろう。
 前回の会議で、大貫と冬馬の会話を聞いていたのは桐江だけだ。つまり。大貫が個人的に"部外者"と知り合いである事を知っているのは桐江だけなのだ。
 「答えて下さい、閣下!」
 真剣な表情を一瞥する。これはこれで見ていて楽しい。たまにはこうした緊張感も必要だ。何しろクーデターを起こしているのだから。
 そのまま無言でてきぱきと衣服を脱いで行く。其々にハンガーにかけ、ズボンの皺も整える。
 「貴方が情報の漏洩元で無いのなら、自分の質問に答えて頂ける筈だ。答えて下さらないなら」
 凡ての衣服を脱ぎ終えて向き直る。
 真っ直ぐな自衛官の瞳は、ただ、大貫の慧眼に注がれていた。
 「貴方を漏洩元と判断し、そう報告するがよろしいか!」
 

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