□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 時間的にはそう大した物じゃない。
 冬馬が南門に入ってから、現在まで時間的には25分足らず。30分に満たない時間がなんと長い。長くて濃くて、出口が見えない。それ程複雑な物でもないのに、耳の中の音声とリアルの音声を、脳で分別して理解し、整合性が合う言葉を選ぶのは至難の業だった。発した言葉も示唆した内容も、至って単純で素人じみていたと言うのに。
 素人。じみていた、のではない。素人そのものだ。自分は紛れも無く素人なのだ。自分以外の全員はプロなのだから、素人がとっ散らかった対応をしても、反応速度内容ともに至らないのも仕方ないと言える。
 素人はうろたえていた。一つ一つのやり取りに。何より。
 耳の中に今現在、広がっている沈黙に。
 指令官がルートを"あさぎり"こと冬馬に示してから、聞こえるのはほぼ、静かな足音だけだった。リノリウムの床の階段を上り、そこからコンクリートの床へ。飛び降り、進む。それらの音には乱れも動揺も、感情の一欠けらも感じられない。機械的で規則的な音だった。
 店内の人間に気取られないように、オーダーを伝えて来る店員に応え、エスプレッソマシンやドリッパーや珈琲メーカーを作動させる、自らの立てる音の方がはるかに慌てていて、幾度と無く自らを叱りつける。耳の中には、動揺の全く混じらない、乾いた足音だけが響いていた。
 ただ淡々と進み、冷静に様子を伺い、また進む。焦りも恐れも無く淡々と。
 音だけでは状況が掴めず、自然に心拍数が上がる。それを平気な顔でやり過ごすふりをする。芝居ともいえぬ芝居が苦しい。
 やや暫くして、耳の中で一回、長い深呼吸の音が響いた。
 ――― Asa-giri speaking.I'm standing in front of the subway.'ll Cuts connection.(あさぎり。サブウェイ前。通信を終わる)
 Click音。
 「やっ…」
 「はぁいマスター?」
 「・っ、Bでクリスマスブレンドで良いんだよね?」
 「そうです、二つ〜」
 …った!
 後半はかろうじて心の中で叫ぶ。思わず肩ごと両手を握り締めて、その後で動きを飲み込む。ほんの一瞬、馬鹿正直に身体で喜びを現してしまった。動いた後でまずいと気付いても後の祭りだ。そっと深呼吸する。
 たまたまエスプレッソマシンの陰にいて、たまたま横に誰もいなかったので見咎められはしなかったが、それはただの偶然だ。感情が理性を乗り越えた。無防備で無謀な素人の所業だ。
 そっと周りを伺ってみる。周囲の人々に変化は無かった。カウンタの楢岡と目が合ったが、気取られたからではなかった。単純に長沢が見回したから目が合ったのだ。
 「ん?おかわりする?」
 頷いてカップを差し出す仕種もいつも通りで、少々安心する。
 「B二つX、よろしく〜」
 小走りに近寄る看板娘にプレートを渡し、流しで楢岡のカップを洗いながら、ようやっと深呼吸する。安堵の笑みが零れた。
 終了。終了だ。
 大丈夫。冬馬は生き延びた。取り合えず今日は、やり過ごした。自分が生き残れるかどうかは……他の人間の判断次第だ。
 兎にも角にも、こちらの修羅場もこれで終わる。長沢自身の事の成否が決まるのはこれからだが、何にせよこれでイベントは終わる。後は通常業務だ。混雑のコアタイムを何時もどおりに、乗り切れば良い。その後の心配は、その時々ですれば良い。胸をなでおろす。胸郭の中の心臓も、通常営業に戻りつつあった。
 「北村くん、こっちたのむ」
 客の対応から戻って来た北村が洗い物に移る。長沢は出来上がったカプチーノのツートンの泡を愛用のスティックで絵に仕上げ、シナモンを振り掛ける。楢岡の前に差し出すと、彼が小さく吹き出した。
 「な、何?喫茶店店主に対して傷つく反応だよそれ」
 楽しげに笑いを湛えた目許が持ち上がる。優しい表情だった。
 「Kちゃんてさぁ。絵心はそんなに有る方じゃないよなぁ。時々クマか犬かネコか分からないカプチーノが来る事がある。まぁ俺はどれも可愛くて好きなんだけど。ちなみにこれは…犬っぽいクマだと思うけど正解?」
 「……犬っぽいは余計です。どう見てもクマです」
 そうか。呟きながら口をつける。うまい、と呟く仕種に、この男の心遣いを見る気がする。
 悪い男ではないのだ。少々物事に固執する癖はあるが、それとて独創性の有る着眼点と洞察力とのトリオで、この男の有能さを語るだけの事だ。物を斜めに見て皮肉るのも、客観性があるという特性だ。必要な事柄を延々隠す癖も、相手の動向を探る為の用心深さの表れだ。癖は少々強いが、それが個性と言うものだろう。
 頭脳の回転がよくて、話題が豊富で、話していて飽きない。面白い人間である事は確かだし、付き合えば味のある男に違いは無い。
 …… こう言う状況でなかったら。
 「今度は、俺がおごる、な」
 「―― ん?」
 「もう少ししたら、栄転な訳だろ?楢岡くん。実際、本庁行ったら、ここに足繁く通うのはどうかと思うしね。今度は俺も事情知っている訳だし、楢岡くんが取り繕う理由も無い。心をこめて送り出してやるよ。俺のおごりで」
 「またまた。そうやって追い出す気だろ。どんな風に送り出されても、俺来ますけどね」
 これからもこの男と向き合う関係が続くなら。それは必ず、二つの内のいずれかに変遷していく。
 「ん〜まぁ、それとこれは別。来るのは君の自由だし、いらっしゃったお客様には心よりのおもてなしをさせて頂きますとも。でもさ。毎日とか絶対有り得ないだろ、仕事的におかしい」
 詐欺師が言いくるめて抱き込んで、利用して続く騙しあいか。
 「毎日が駄目なら、まあ一日おきで我慢しておいてやるけど」
 死神に追い詰められて一巻の終わりか。
 「懲りないなぁー、楢岡くんは」
 「そりゃ懲りませんとも。十年以上続いてるんだもん、おいそれと終わらないわ」
 どう転ぼうが、詐欺師と死神だ。幸せな結末など、有る筈も無い。いずれにしても。
 今ここで分かれるのが、互いの為に一番良い筈だ。何の解決も見ない代わりに、誰も傷つけず、血も流れない。喫茶店店主と一刑事のままの終焉。最も穏やかに美しく終われるのだ。だが、それでも。
 人間の欲も行動も、全く理には、適わない。
 戸口のベルが鳴る。わらわらとOLとサラリーマンが流れ込んでくる。
 「いらっしゃいませ〜」
 洗い物がなくなる前に、看板娘が使用済みの皿を持ち込み、そのままレジに入る。出る客と入る客がカウンタ前でぶつかり合う。従業員同士が自然と目線交換をした。来たぞ。来ましたね。アルバイタが店の奥から、らっしゃいませ、と、八百屋さながらの声を上げる。長沢は楢岡に、話しの続きは後で、と目で告げて厨房に戻る。
 本格的なコアタイムが、いつも通りに始まるのだ。
 
 一日の業務が終了したのは、例年通りいつもより遅い21時過ぎだった。
 クリスマスも終わり行く街の底で、帰る場所を思いあぐねる客は存外多い。
 宵の浅い時間は、彼氏彼女の不足を嘆く若い男女の愚痴タイムである。フリー同志が何人かのグループになり、リスマスと言う名のカップルの逢引の時を呪う。マイナスの感情は結び付きを強めるもので、彼らはそれなりに楽しそうである。だからこの時間はまだ罪が無い。辛いのは以後の時間である。
 連れ合いは居るものの、家へ帰っても女房が冷たくて、子供が素っ気無くて、などと言う理由で居座る客はまだ平和だ。
 この間、嫁が出て行ったよ。離婚の判、突いて来た。誰もいない、冷え切った家の中に入りたくない。などは身につまされる。年は越せると思ったのに、とうとう破産宣告を受けたよ。と言う一言には返す言葉も無かった。
 時間は誰もに公平に降り注ぐ。それが良い時であれ、悪い時であれ。
 シャッターを降ろして店を磨く。クリスマスに対応して取り付けた、リースやら柊の実やら、綿で出来た雪やらを取り除く。窓に吹き付けたスノウスプレーを拭き取ると、店は平常営業に戻った。
 有線のJAZZでも流そうかなあ。ぼんやりとそう思いながら店スペースを出る。
 通信機は、コアタイムを終わる頃にはポケットから出し、二階の台所のテーブルの上に放り投げてある。クリップラジオとイヤホンはそのまま、耳に繋いで一日を終えた。今後のこうした事態に対応する為に、イヤホンはこれからずっと耳に入れて置くなり、首にかけて置くなりするつもりだ。
 疲れた。慣れぬ事で非常に疲れた。
 つい好奇心でしてしまった、悪戯のような仕掛けが生きたのは意外だった。アクシデントが無ければ、いつの日かに気付かれて、こんな性質の悪い悪戯を!と怒られる程度の物だ。
 下見とばかりに最高裁判所周辺を見学に行き、あの一角が意外に朝と夜は人気が無く、近付いても誰にも見咎められぬ物だから、つい調子に乗ったのだが、それが功を奏するとは思わなかった。だって。誰にとも無く言い訳をする。
 誰が見てもあの建物から出るならあそこなのだ。昭和41年と46年に建てられた建築物の外壁は、つるんとしていて凹凸が無く、立ち入り辛い代わりに出てしまうと防護は薄い。門の警備は厚いが隣の建物は眼中に無い。となればそこから出るしか無いだろう。
 ただ、出る所までは良いが、出た後が問題だ。普段は人通りが少ないうえに西門と隣接していて目に付き易い。出ても見咎められては元の木阿弥だ。だから、タイミングを待ったのだ。
 立志会を終えた2300人の学生が劇場から流れ出るタイミングを。
 冬馬は学生の波に乗った。目立つ筈の個性が、誰の目にも留まらずに逃げおおせた。彼の言う通りなのかも知れない。
 啓輔、俺達に顔は無いんだ。
 階段を上って台所に入る。開けたままの障子の向うに、神保町交差点の明かりが瞬いていた。クリスマスが終わる。
 クリスマスが終われば直ぐに年も暮れる。今年も終わりだ。散々な年だったように思う。
 穏やかで静かで…だが空虚な10年が有って、このまま生を終えて行くのだと思っていたのに。この年の秋にそれが凡て変わった。変わらされた。思えば最初のきっかけから、3ヶ月も経っていないのだ。
 10年来の生活を一撃で壊した異邦人が、眠っていた長沢を叩き起こした。驚いて目を覚ますと、妻と子供が訪れて去って行った。空になった掌に、今は革命などと言うとんでもない物が乗っている。
 途中までは寝起きでぼうっとしていた。だがそれも過ぎると、奇妙な飢えに気付いた。
 俺はまだ生きている。まだやれる。まだ、やる事がある。
 そんな飢えに気付いたのだ。逆に言えば。
 10年間も飢えてやっと、自分は起き上がったのだ。そんな単純な事が、そんな根源的な事が。10年もかからねば出来なかった己の臆病さが滑稽だった。自らで思い切れずに、他者の力を借りねば出来なかった自らの意気地のなさが滑稽だった。臆病で弱い。それでも。この飢えは押さえきれない。
 かつて感じた充実。興奮。崖っぷちギリギリに立たされた時の例えようもない疼きが体の中に蘇って、欲しい、と思った。ただどうしようもなく、欲しいと。欲しい欲しい欲しい。寄越せ。そう思ったのだ。
 台所を過ぎた辺りで、かすかな呼吸音に気付いた。窓から漏れ入るネオンの光の中で瞳をめぐらすと、台所の奥に丈高いシルエットが有った。ピクリとも動かぬがこちらを見ていると分るのは、覗き込む長沢を視線で追う気配がしたからだ。
 らしいな。思わず苦笑が漏れる。
 物音も立てずに入り込み、気付かれるまで黙って立っているなど、この男以外誰もしない。動けない時間が苦痛でないのは、待つ事に慣れきったスナイパーくらいの物だろう。
 「冬馬、来てたのか。来てたなら声掛けてくれよ、驚くだろ。今日はお疲れさん」
 それなりに俺も役に立っただろ。そこまでは言わずに歩み寄る。身体を張ってこの国の為に動いてくれる青年を労いたいし、初めての参加の感想も聴きたい。間近に踏み込んで、初めて違和感に気付いた。
 「冬馬…?」
 灰色の目が、無表情に長沢を見下ろしていた。
 暖房の入っていない12月の室内で、呼気がかすかに白く色づいて渦を巻く。肌がぴりりとひりついた。
 影が動く。じりと片足を踏み出して長沢の前面を塞ぐ。音も無ければ空気も動かない。気付くと目の前に灰色の瞳が有って、すっかり射すくめられていた。
 かちん。不意に歯の根が音を立てて驚く。訳が分らずに息を呑む。毛が逆立つ。この感覚は。
 目の前の瞳を覗き込む。見慣れた灰色の瞳を。その中の個性を。肌がひりつく。この感覚は、それ程遠い記憶ではない。これは。
 「…冬…」
 恐怖だ。
 踵を返す。階段に飛びつく。兎に角ここから出るのだ。肉食獣の檻から逃げ出すのだ。早く。早く。
 一歩踏み出した所で追い着かれる。片腕で胴をさらわれて引き寄せられる。簡単に足が浮いた。
 「いやだっ…!」
 壁に押し付けられて、そのまま口を塞がれる。熱い舌が潜り込む、息が塞がった。もがいて暴れ、勢い余って舌に噛み付く。口の中に鉄の味が広がった。
 捻り込まれた舌は怯む事無く、口の中を愛撫する。愛撫と言うより、もっと強い。しがみ付くように、縋りつくように、強引に入り込む。痛みも傷も、流れる血も無視して絡みつく。引き離そうともがく程、それ以上に抱き入れられる。呼吸をするのに精一杯だった。
 恐怖に赤くなった頭の中の一角が記憶を辿る。こんな青年をかつて、どこかで。
 引きづられる。壁から剥がされて、畳の上に転がされる。一瞬、体が離れた。
 「冬馬っ、待ってくれ、ま……」
 目の前に火花が散った。
 留めようと身を持ち上げた長沢の顔と、屈み込もうとした冬馬の頭がぶつかった。がつん、と鈍い音がして、顔の真ん中に激痛が走る。眼鏡が弾けとび、手で押さえる間も無く、血の飛沫が飛び散った。
 「…が…っ……」
 痛みが恐怖を振り払う。痛みで跳ね上がる筈の恐怖のメーターは、急速にその動きを止めた。思い出したのだ。
 最初の夜。まだ血なまぐさい事が起きる前の、青年の姿を。
 あの夜。ラストオーダーギリギリになって、旅人がやって来たのだ。乾いて疲れ切った旅人が、戸口にボロボロのまま佇んでいたのだ。迷って飢えた旅人を、恐らくは救えると、多少なりとも力になれると、そう思ったから長沢は彼を迎え入れたのだ。彼を。冬馬を。
 今夜も同じだ。全く同じだ。
 乾いて、疲れて、飢えて。ここに辿り着いて。何かを求めて、縋って、結局は奪ったあの時と。
 あの時と違うのは。
 今ここに居るのは名も知らぬ旅人ではなく、長沢の同志である水上 冬馬であると言う事だけだ。
 痛みで動けずに、されるがままになる。思い切りカウンターが入った鼻は、不幸中の幸いで折れてはいなさそうだ。それでも痛みは顔中を占領していた。涙は止まらないし、目もあけられない。呼吸さえが痛みを呼ぶ。カウンターは不可抗力だ。青年に攻撃の意志はない。
 乱暴な手が、長沢の衣服をはぐ。緩いシャツを捲り上げて、ジーンズを引き下ろす。かすかな動きにも痛みが波打った。
 「冬馬……たのむ冬馬。正気に…かえって」
 手が長沢自身を包み込む。縮み上がっている部分を掌で転がす。再び跳ね上がりそうになる恐怖のメーターを、長沢は必死で押さえつけた。ここに居るのは名も知らぬ旅人ではない。同志だ。
 濡らされた指が後門に突き入れられる。唾液を吐き付けて濡れを押し込む。愛撫と言うよりは、手順だった。目的を達成させる為に必要な手順を、目の前の獣は冷静に踏んで行く。きちんとポイントを押さえてルートを辿っていく。不思議だった。
 どう見ても正気じゃないのに。思考も思想もそこには存在していなさそうなのに。熱に浮かされて、理性を失っていた手が辿るのは正しい手順なのだ。本能のままに動く獣の動きは、まるで正確無比な機械のようだ。
 「う、あ、ぁああ…っ」
 押し込まれる。ろくに慣らしてもいないその場所に、熱く怒張した物を押し込まれる。濡れだけを頼りに、拘りを切り拓く。
 顔の中央に鎮座する痛みを、別の箇所の痛みが押し流す。一度で入り切らずに、幾度も繰り返される痛みと圧迫感に吐き気が湧き上がる。何度目かにどん、と体が上に乗り上げて、その振動で目が開いた。
 目の前に、唸りを上げる獣の顔があった。
 歯を食いしばり、銀色の瞳をこちらに向けたまま、荒い息を持て余している獣の顔が。意識しているのか、無意識なのか。食いしばられた歯の隙間から、絶えず呻き声が零れ出る。快感なのか、苦痛なのか、何かを訴えたいのか、そんな意識すら残っていないのか。何ひとつ分からない。
 顎先に手を延ばす。普段の冬馬なら、喜んで摺り寄せてくる部分に指を這わせる。
 「冬馬……冬馬。俺が……分る…?」
 一つだけ分かる事がある。飢えていたのは、自分だけではなかったのだ。
 かつて、目覚めた時に長沢が感じたどうしようもない「飢え」を、冬馬も感じているのだ。飢えて飢えて求めて得られずに、あの日、冬馬は長沢の許に迷い込んだのだ。そして今日も。今日は。
 迷ったのではない。辿り着いたのだ。ここに居るのは同志だ。同志、水上 冬馬なのだ。生死を共にする。魂の、繋がっている……
 腕ごと身体を押さえ込まれる。逞しい両腕が長沢の身体を引き摺り上げて、上から体重をかけて自身を埋める。
 「……っく!」
 急激な動きに引きつる部分を気遣いもせず、そのまま突き動く。受け入れようとする、長沢の努力は間に合わなかった。
 「、たの…む………、ぁあっ、たのむ冬馬……そっと…」
 突き入れられる。獣の吐息が渦を巻く。腹の奥まで侵入される。凶暴な熱に掻き回される。悲鳴すら、冬馬の咆哮に掻き消される。
 分るのに。今ならば。お前の飢えも欲望も、埋めようの無い虚無感も、その凡てが分るのに。それなのに足らない。それでも到底追いつけない。
 「……啓輔」
 霞む意識の中で、言葉が聞こえた気がして手を伸ばす。そこまでの記憶は確かだ。だがそれからは。
 それを取ってくれたのか、振り払われたのは分からない。

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