□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 
□ 来し方 □

 年末年始は、とかく忙しくするものと相場が決まっている。ご多分に漏れずSOMETHING CAFE店主もそうしている。
 年内にとらねばならない必要最低限のコミュニケーションは一通りきちんと済ませた。必要ではないコミュニケーションまで求められて、不覚にも応じてしまったのがすこぶる不本意で、早々に青年の"超"がつくリッチなマンションを後にした。
 政治家ともなれば、著作の一つや二つ上梓しているから、当然父親の著書くらい持っているだろうと問うと、当たり前のように頭を振られて、中っ腹な店主がその場で踵を返したのだ。
 年末は忙しいのだ。大掃除と言うイベントが待っている。雑事にいつまでも付き合っているほど暇ではない。
 住みなれた猿楽町に戻って規定作業に掛かるのだが、今年は大きな付属品が共に猿楽町にやって来た。リーチが長いので隅々にまで手が届くし、力仕事も難なくこなす"それ"のお陰で、例年、たっぷり大晦日の昼頃まで掛かる作業が、晦日の日付変更線を越える頃には終わった。その成果に気をよくした店主に、笑顔で有り難うと言われて、青年は大人しく帰途に着いた。
 年末年始は忙しいのだ。今度は俺がここに泊まるなどと言う、青年のお遊び気分の戯れには付き合えない。
 
 「あけましておめでとう御座います!今年も色々よろしくお願いしますね―……って。
 ――何だよ。しょっぱなからKちゃん、ご機嫌ナナメかよ」
 「だって俺、どうすりゃ良いの?これからどこへ行くかも、どう言うスケジュールで動くかも何も聞いてないんだぜ?」
 年の暮れに、新年の休みの一日をくれと楢岡に言われてOKした。その日の内に二日が行動日と決まった。北と西、どっちが良いと聞かれて、この季節の北は寒いんじゃない?と答えたら分かったと言われた。楢岡との間に交わされた一日旅行の話し合いは、これが凡てなのだ。
 後は、何も用意は要らないから、来れば良いと言われただけだ。風邪引かないように温かい格好でね。東京駅から6時15分の新幹線乗るから早く迎えに行くよ。そう言って電話は切れた。そして今日に至る。
 着慣れたダウンと使い慣れたデイパック。ジーンズにトレッキングシューズ。それに水筒。いつも通りの長沢の出で立ちに、何故か奇妙に安心して駅へ向う。東京までは、御茶ノ水から僅か五分だ。ホームに立つと、長沢が小さく、あ、と呟いた。
 「あけましておめでとう御座います。今年もどうぞよろしくお願いします。楢岡くん」
 毒気を抜かれて見つめると、上目遣いに様子を伺って小さく頭を下げる。
 「いや、さっき俺、ちゃんと答えなかったから…」
 苦笑が漏れる。
 SOMETHING CAFE店主は、もともと気分にムラの有る方ではない。いつもは大概穏やかな笑顔で、客の方から何か持ち掛ける迄はプライベートに触る事もしない。季節の話題や、近所の取るに足らない噂話や流行を、邪魔にならない程度に話すのが上手い男だ。
 何回も店に通えば、極々自然なタイミングでぞんざいな口も利くのだが、聞き手にはそれは親しみに思えこそすれ、態度が悪くなったとは受け取られない。何処と無く弱々しい、優しい外見の所為なのだろうが、他の人間がやると、中々こうは行かぬものだろう。
 常連に対する態度も、大体は非常にジェントルで公平だ。殊、楢岡に対しては少々の例外が有るかもしれないが。
 「良いよ。この頃Kちゃん俺にはぞんざいだもん。直ぐ怒るし」
 「そんな事無いと思うがなぁ……、そうかなあ。だったらごめんなさい」
 幾ら身軽な男とは言え、旅行するにしては楢岡は余りにも荷物が少ない。フードつきのハーフコートはポケットが多そうだが、それにしても手ぶらと言うのはどうだろう。軽いデイパックを背負っただけの長沢が首を傾げると、楢岡が自慢げに胸を張った。
 「任せておきなさい。もう凡て現地に送ってあるのだよ」
 「現地ぃ?」
 新幹線ホームに進み入る。弁当売り場を物色し、互いに気に入った物を買う。長沢の水筒の中身はアメリカーノなので、それに合わせていたら同じ物になってしまい、却って邪魔だったかと恐縮する長沢に楽しげな楢岡が首を振った。Kちゃんは珈琲とセットで居てくれる方が良い。二つの弁当を入れたポリ製の手提げ袋をさらいながら楢岡が言う。
 アナウンスと共に、鼻面の広がった車体がホームに滑り込む。長沢が小さく感嘆の声を上げた。
 「おー、のぞみN700系だ。最新式じゃないか。おー、ラッキー。俺まだこれ乗ってない。座席が広くなって快適なんだって?700系より更に鼻面長くなったなあ。……博多行き?」
 「俺的には形は500系のが好きだけどな。はいこれ乗車券と特急券」
 乗車券の文字は「東京-新神戸」となっていた。行き先は兵庫県神戸市だ。少なくとも新幹線で行くのはそこまでだ。長沢は初めて自分の行く先を知った。西と言うからには近畿地方以西とは思っていたが、まさか、ぴたり「そこ」とは思わなかった。
 新幹線に乗り込む肩口の人影が、大きく息を呑む。その気配に振り向いた楢岡の肩を、細い腕ががっちり掴んだ。その癖、何も言わず、乗車券を睨みつけたまま目線も上げない。楢岡は苦笑混じりにその体を座席まで半ば引き摺って座らせる。大きな目が真正面から楢岡に挑んだ。
 「楢岡くん、目的地どこ? もういいだろ、教えてくれ」
 この数ヶ月だ。長沢がこんな姿を見せるようになったのは。
 何かに囚われて、瞬間、周囲の事象を忘れる。他の人間は気付かぬだろう小さな変化を、楢岡はずっと感じている。あの事件以降、長沢は変ったのだ。
 初めは傷ついて悩んでいるのだと思った。事実心身共に傷ついてもいた。十日ばかり入院したのが何よりもの証拠だろう。だから。一人で苦しむくらいなら、ここに助けの手があると知らせたいと思う気持ちと、その傷に付け込んで手に入れたいと言う気持ちの両方で、長沢に近づいた。傷つけたかった訳ではない。守りたかったのだ。この個性を。それだけは真実だ。
 こちらの手の内を見せて近付くと、長沢も本当の姿を見せてくれた。恐らくは、本当の姿を。温和でクールな喫茶店店主とは全く違う、努力家で策略家で小狡い詐欺師の表情を。
 「来なすったな。別に良いよ、Kちゃんが神戸近辺で気になる所が有るならそっち行っても。俺のメインは、まぁ一個だけだからね。そこさえ抑えておけば後は全然変更可能だ。おっさん二人で神戸ポートタワーとかポートピア巡りも無いしなぁ。どこへ行きたいの?」
 意気込んで言いかけた口を閉じる。
 「見せたい場所」が有ると楢岡は言った。北と西からチョイスさせた所を見ると少なくとも二つ以上は有って、今回は西の一つを選んだのだろう。それは嘘ではありえない。遊びを詰め込んで楽しめる男の事だから、「見せたい場所」を中心に、恐らくはスケジューリングもしただろう。それをこの男は、長沢の一言で白紙に戻そうと難なく言う。
 「あ……その、ごめん。ああ、そうだ。まずは代金払うな。えっと、乗車券9030、特急券4730、行き来で27520…大体三万、他に宿泊費とか有るんだろ?幾ら?」
 「良いよそんなの」
 「それは駄目です。じゃ、まずは運賃だけ30000円。後はおいおい」
 「Kちゃん細かいな〜」
 「だって俺、君に借り作りたくないもんな」
 席について窓の外を見る。さりげなく窓側に長沢を座らせるのも、楢岡の気遣いなのだろう。見やった景色の手前の硝子窓に、にやりと笑う楢岡の顔が反射した。
 「何?身の危険感じてる?押し倒されるんじゃないかって?あのさ―、飢えた子供じゃないんだから、俺。この年になってそんなの興味ないって。抱いて抱いてって擦り寄って来る方が絶対可愛いモンね。俺は快楽主義者なので、絶対そっちです。無理強いには興味有りまっせん」
 ついまじまじと楢岡を見てから息をつく。妙に納得する。その通りだ。この男はあちこちの女と浮名を流す快楽者タイプなのだ。ついそれを忘れていた。SOMETHING CAFEで楢岡の女がかち合い、あわや刃傷沙汰になりかけた時も、「楽しくやろうよ。いがみ合っても良い事ないだろ」と平然と言い放った男だ。今もって、あの局面が何故あの言葉で収まったのか一向に理解できない。
 急に自らの妙な拘りが滑稽に思える。つい笑うと、怪訝そうな瞳に覗き込まれた。
 「ああ、ごめん。いや、君らしいと思ってさ。だな。女の子に言い寄られる方が君らしい。男はもう、いいよな。俺も色々考え過ぎだ」
 のぞみがホームを滑り出す。止め絵の景色が、列車の動きと共に滑り出し、後ろへ駆け去っていく。余りにも滑らかで速やかな加速に唸ると、楢岡が笑った。
 子供の頃、この感覚が好きだった。世界が動き出すような、この感覚が。
 「なぁ楢岡くん」
 ん? と、弁当の包みを開けながら答える。きちんと長沢の座席の前のテーブルを起こし、その上に彼の分の包みを置いてから、自分の分に取り掛かる。一つ一つの気遣いが、若者とは違った。
 「お言葉に甘えて、本当に俺の行きたい所、組み込んでも良いかな?芦屋市なんだけど」
 「芦屋市?え、もしかして山の手?政治家関係? もしかしてKちゃんまだ例のアレ拘ってんの?」
 話の早さに言をつめる。流石に情報のつながりが早い。日本で育ち、日本の数々の事件に触れている現場ならではの連結の早さだ。冬馬ではこうは行かないな、と思いかけて苦笑する。
 「うん。まだ、……って。そりゃそうだよ。君ら警察官にとっては事件の一つに過ぎなくても、俺にとっては大きいし、唯一の事件だ。拘るよ」
 「……そっか。Kちゃん辛い思いしたモンな」
 柔らかいテノールが溜息混じりに呟く。その声が柔らかくて、底に潜む労わりの思いが透ける。事件の真相を知っているのは長沢で、知らないのは刑事の方なのに。
 「民衆党富士野忠明が死んでさ、本当に自然死だったら何も思わないけれど、ああ言う裏の事情が有るって気になって、政治家とか調べてみたんだよね。そしたらこの人、元々は自明党にいた兵庫県連なのな」
 弁当を口に入れようとしたタイミングで楢岡が止まる。どうするのか見ていたら、同じルートで元に戻して箸を置く。どうやら驚いたらしい。
 「俺、知ってて兵庫選んだ訳じゃないぞ。これはたまたまだ」
 分っている。もし故意なら楢岡は超能力者だ。
 「楢岡君が選んだ兵庫が、たまたま大物政治家が多いとも言えるね。扇千景とか小池百合子とか鴻池とか渡海紀三郎とか皆そうだよ。で、その富士野忠明ですけど。
 元々は坂本派の人間。当時は坂本派って言ったけど、これは現在の岐萄派。つまりは清正連。勿論、岐萄派の会長は岐萄友充なわけだけど、そう言う訳で岐萄も兵庫。芦屋にデッカイ御本家があるらしいです。
 富士野は清正連を2001年に抜けて、民衆党に潜り込んでる。この年は、岐萄が汚職スキャンダルで政界から蹴り落された年でさ。それで気になった。富士野って絶対岐萄に恨まれてたよなぁ。そうだよなぁ。で、岐萄が気になって来た」
 言いながら弁当の包みを開ける。水筒のキャップと内ブタに中身を注いで片方を楢岡に差し出し、そのまま彼に向き直る。
 「だから、岐萄の本家の辺り、見たい。そこの自治会会長の話とか聴きたい。松が明けたら多分早めに解散総選挙になるから、動いてるんじゃないかな。二日じゃ無理かな。でも行って見たい。良いかな楢岡くん」
 これだ、と思う。
 恐らくは長沢の本当の姿はこちらなのだ。少なくとも、一つの喫茶店に籠り、訪れる客だけを相手にするタイプでは無いのだ。無い筈なのに。
 「いいよ。付き合う」
 「本当に。すまないな。でも有り難う。兵庫を選んでくれた事も有り難う。俺一人じゃ絶対動かなかったもの」
 何かを言いかける楢岡の前で両手をぱちんと合わせる。
 「それじゃ、いただきます!」
 割り箸を両手の間に挟んだままそう唱えると、楢岡が吹き出した。
 「なに、急に。俺びっくりしたわ」
 割り箸を割り、チキンライスに差し込んだ所で笑われて動きを止める。きょとんとした長沢の表情に、余計に笑いを強める。笑われる意味が分らなかった。
 「え、何って……頂きます、だよな」
 「手を合わせて?声に出して?言いますか」
 「言うよ。俺、一人の時でも言うよ。そう言えって子供にも教えたし。これは自分が生きる為に"貴方の命を頂きます"と言う事だから、ちゃんと手を合わせて言いなさいって。普通だと思うけど…」
 ゆっくりと笑いを収めて、割り箸を取る。なるほど、と小さく頷きながら、同じように手を合わせる。
 「頂きます」
 楢岡の動きに合わせて共に箸を取る。今一度、横で楢岡がなるほどと呟いた。
 「俺、声には出さないわ。手も合わせないかも。日本的行いだな。キリスト教だと長々やるお祈りの代わりの"頂きます"か。そう言う話、聞く事無くなったよな」
 いつもは意識しない年齢を感じる瞬間だ。長沢は楢岡の8年上。10年足らずの年齢の差は、それでも価値観を変えるには十分だ。頂きますと言う一言が指すのが、命であると考えた事は無かった。
曖昧に頷いて食事に動く口許を見つめる。細めの顎の上の、髭に覆われてはっきりしない口許が、それでも安らいで笑う。窓の外を走り去る景色の手前で、穏やかな笑みを浮かべる。
 子供の頃、列車が動き出す瞬間が怖いと思った。だがいつか、世界が動き出す感覚が好きになった。自分を乗せて動く世界を、面白いと思った。
 「Kちゃんとは一度、ゆっくり話したかったんだ。SOMECAFEで話す様な話題じゃなくて、もっと価値観とかポリシーとか…そう、哲学みたいなモンをさ。今回はそれに付き合ってもらうんだから、Kちゃんの興味にも付き合うよ。それにそれ、中々面白そうだ」
 楢岡の言葉に頷いて、もう一度礼を言う。
 勘の良い楢岡が、何処まで気づいているのか、それは分からない。ただ、長沢はたった一つの項目を隠したのだ。
 長沢が本当に興味を持ったのは岐萄友充ではない。その息子の、正確には妾腹の子の、羽和泉 基、その人だ。
 芦屋市の隣、神戸市垂水区。そこが羽和泉の出生の地だ。本家の目と鼻の先で生まれた妾腹の子。彼が生まれる頃には、既に生活の基盤を東京に移していた岐萄は、どう羽和泉と付き合ったのか。羽和泉はどう生まれ、育ち、その心の中で何を育て、今に至るのか。そこに尽きぬ興味を抱いたのだ。
 同じく自らの妾腹の子、水上 冬馬を、自らの目的の為に刺客に使う個性はどうやって培われたのか、それを知れば、彼の求めるものが分かる気がした。分りたいと願った。羽和泉 基と言う政治家を、その個性を。
 求める本当の名を、長沢は隠した。岐萄と言う大きな名の中に。
 指先が唇をかする。口髭の上から飯粒を一つ、さらってこれ見よがしに自らの舌の上に乗せる。
 長沢の視線が驚いて見守る先で、楢岡は殊更ゆっくりとそれを飲み込んで見せた。抗議は言葉にならなかった。
 「Kちゃん、油断大敵。俺、無理強いはしないけど、隙みつけたらそれは逃さないよ。告白済みだし、宣言済みですから。俺を前に物思いなんて、そりゃ誘ってるのと同じですから、ガンガン踏み込ませて頂きますとも。ええ」
 空になった楢岡のカップの中にアメリカーノを注ぐ。楽しげに笑う楢岡の顔の前に湯気の白いもやが掛かる。面白いじゃないか。
 「よっく分りました。君の事、今、凄く良い奴だなぁと思いかけてたけど、戻す、戻す」
 「あ、それは戻さない方向で是非」
 視界の奥で景色が流れる。世界が動き出すこの感覚は、嫌いじゃない。
 

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