□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 テントむしは第二神明道路から国道二号線に入り、山陽道、中国道へと抜ける。景色は最早完全な山である。穏やかななのと、気分が良いのと、溜まっていた気疲れも手伝って、山崎ICから一般道に降りる頃には、長沢はすっかり寝入ってしまっていた。
 起きているつもりだったのだが、山の景色がかすんで、遥か彼方で誰かが父さんと言った。
 娘と、羽和泉 基の存在が奇妙に重なった。父親が不在の家庭は、一体どんななのだろう。妻と子が居る兵庫を離れて東京に住み、TVに映る時はフィクサーだの黒幕だの言われる父親と、何処に居るかも何をしているかも分らぬ父親と、どちらが子供にとって残酷なのだろう。どちらが子の母親であり、妻である女(ひと)にとって罪悪なのか。瞳美の声で羽和泉が父さんと呼んだ。
 父さん。お父さん。
 冬馬、私の兵士になれ。それがお前に出来るか?
 
 はっとして目を醒ます。
 心臓が早鐘のように打っていた。瞬時に状況が分りかねて辺りを見回し、ようやっと溜息をつく。
 国道29号線。表示は二股に分かれて、若桜方面と県道48号を示していた。
 「ごめん、楢岡くん、俺ちょっと寝てたかな……何か言ってた?」
 先程までとは打って変わって、沈んだ表情の楢岡が、ルームミラーに目を運ぶ。
 「うん……随分うなされてたよ。何度か瞳美、って言ってた。娘さんの夢見てたかな」
 ああ……。納得して溜息をつく。そんな夢を見ていた。
 長沢が眠ったのは、何も景色の所為だけではない。平磯を出てからの楢岡が塞ぎがちなのが、一番の大きな要因だ。
 先程までの勢いが嘘の様に、平磯からステアリングを握った楢岡の口は重かった。何かを考え込んでいるようで、道路の一点を睨みつけたまま、いつになく黙り込んでいる。むっつりと口をつぐんだこの男なぞついぞ見た事が無いから、ついつい気を遣って大人しくしている内に眠り込んでしまったのだ。今もまだ、楢岡から重暗い空気は去っていない。
 「うん。見てた。何かその……父親不在の子供って意味じゃ、羽和泉家も俺の家も似たようなもんだと思ったせいかな。瞳美が俺を呼んでる夢を見た。お父さん、って。………今更だけど、悪い事したなぁ」
 素直な声と物言いに、少なからず楢岡は驚いた。
 自分の事など何も話さなかったこの男が、ポロリポロリと自らの事情を話すようになったのは、一体いつからだったろう。思えば、SOMETHING CAFEを元の奥方が訪ねて来た、あの時以降かも知れぬ。何も答えられずに暗い道路を見つめる。妻を持たぬ身には、子供を持った故に味わう悲哀はピンと来ない。
 いきなり曲がりくねり出した見通しの悪い道で、念のためにクラクションを鳴らす。上り坂では軽キャンカーのスピードの限界は100にも満たないので、そうそう事故にもならないとは思うが、先方が不埒者だったらこちらの状況は関係ない。
 「後悔……してるかKちゃん」
 良く響くバリトンが、今日は少しくぐもっていた。長沢は周囲の景色に目線を運んだ。
 キャンプ場らしきものを左手に見ながら進む。先程までほぼ見られなかった人影が増えて来た。恐らくは目的地が近いのだ。景色を見ながら頷く。運転手の視線が路上とルームミラーを行き来した。
 「もう10年以上、ずっとしてる。自分の決めた事だから後悔しないなんて人は良く言うが、自分が決めた事だから諦めているだけさ。俺も諦めてる。でも後悔は……ずっとしてる。して行く。死ぬまで。それが俺の当然の報いだ。」
 駐車場に車が滑り入る。時間の所為か季節の所為か、がらがらの駐車場に車を停めて、楢岡が後部からナップザックを取り上げて肩に掛ける。
 行こうか。後ろ姿がそういった。
 
 天瀧・俵岩・杉ヶ沢高原。コースの最初にそんな案内板が有った。
 時間が時間だから、上までは行けない。目的は天瀧だよ。楢岡が沈んだ声で言う。申し訳ない気になった。
 「ごめんなさい、楢岡くん。俺があちこち引きずり回した所為で、君の計画台無しにしちゃったな。上まで行くつもりだったんだろ?」
 驚いたように振り返る目には、驚愕以外の感情は無かった。真っ直ぐに長沢を見て、ほぼ三時間ぶりに口許にかすかな笑みが浮かぶ。それに長沢は酷くほっとした。
 「ああ、良かった。楢岡くん、やっと笑った」
 「…え?」
 「君、さっきからずっと難しい顔しているからさ。何か凄くまずい事したんじゃないかと、俺」
 改めて長沢を見返し、深々と溜息をつく。呆れた、と言わんばかりの笑みでも、楢岡は笑っていた方が良い。不機嫌そうに黙っているこの男には、妙な威圧感がある。彫りの深い顔立ちは、笑ってこそ初めて人懐こく見えるのだ。黙っているといかつくて哲学者か宗教学者のようだ。苦笑交じりの顔が、広い肩の上でゆっくりと振られた。
 「ああ、ごめん。余計な気を遣わせちゃったな。さっきからちょっと考え事していただけで、別に不機嫌になった訳じゃないんだよ。
 最初から目的地は天瀧だよ。俺が見せたかったのはここなんだ、Kちゃん。登り坂だからちょっとだけキツイけど、すぐ着くよ。日が暮れる前に行こう」
 踏み固められて歩き易くなった山道は、目的地の天滝まで、ゆるゆると1.2km余り続く。道を確保する為の灯りはあるが、それはあくまでも往来の為の目印だ。決して絶景を照らすためのライティングではない。自然の光景を見る為には太陽の光が絶対必要なのだ。
 時間は既に4時を回っており、辺りは徐々に明度を落とし始めている。暮れる前に目的地に着かねば意味が無いし、それもギリギリと言う感触だった。
 歩き始めてから、楢岡は気付かれぬようにそっと溜息をついた。やれやれと思う。察しの良い長沢は、恐らく様々な感情を楢岡から感じていた事だろう。それらは凡て当たっている。実際、平磯を出てからの楢岡は落ち込んでいたし、ずっと思考の淵に沈んでいたのだ。
 言いたい事と言うべき事を頭の中に並べて、あれやこれやと計算した。計算すればする程、気分は重くなった。揉めるつもりで来たのだ。雨ふって地固まるという諺を実践する為に来たのだ。その方法でなければ自らにチャンスは無いから、凡ての事項が上手くワークする様に、条件を実行順に並べていたのだ。そのための犠牲も払った。これからも犠牲を払うつもりだ。……目的達成の為ならば。
 大体はコマが揃った。後はぶつけてみるしかない。計算して計算して、今は自らの幸運を祈るばかりだ。
 「Kちゃん、覚えてるか、最初に会った時の事」
 前を行く楢岡の背中が言う。上り坂に既に喘いで居る長沢と違って、呼吸の乱れの一つも無い、それは落ち着いた口調だった。
 「最初って、…俺の最初と楢岡君の最初は違うじゃないか。俺が楢岡くんの最初を覚えてる訳無いよ。何しろ意識ないんだから。その後の事は……忘れられっこないけれど」
 後ろ姿が苦笑する。
 「そうねぇ。何しろ、被害者で犯人だったもんねぇ、アンタ」
 頷く。そうだ。楢岡との出会いは…竹下珈琲との出会いは、今思えば、タチの悪い冗談のようなものだった。いや例え冗談でも。
 あそこまで支離滅裂ではないだろう。
 
 1996年5月。
 95年度が無事に終わり、96年度が始まって、そう時のたたぬ頃だ。家族が義務のようにして旅行に遊興にと騒ぐGW(ゴールデンウィーク)が終わった時分。長沢は猿楽町の"あの"店にいたのだ。
 今の店名は"SOMETHING CAFE"。当時の店の名は「竹下珈琲」と言った。単純に店主の名を冠した店だった。
 店の造り自体は今と何ら変っていない。レンガと木によってなる、茶系のグラディーションの店内。マホガニーのカウンターと木製の椅子とテーブル。上下に開閉する窓ガラス。これでjazzでも流れていれば舞台装置は完璧だが、それは店主の趣味では無かった。
 一日天空を疾走して、くたびれ掛けた太陽の光が差し込む夕刻頃。穏やかで静かな筈の喫茶店内は奇妙に活気が有った。落ち着いた雰囲気に合うとは言いかねる学生達が、笑いさざめいていた所為だろう。
 長沢は西日が差し込む窓際の席で、その日、小一時間余りもただ俯いていた。一口か二口、口をつけただけのブレンドを目の前に置いたまま、ただ俯いていた。目的があった。その目的をここで達成する為に、覚悟を決めていたのだ。行動のきっかけを、待っていたのだ。
 その店を選んだ事に特別な理由は無かった。場所を求めて歩き回ったが達せず、休みに入った店で、ここで良いじゃないかと思っただけだ。たまたま、の事なのだ。
 薄っぺらい、書類鞄を一つ持っていた。中には書類は無く、財布とタオルと、細々とした小物だけ。上着の内ポケットには家から持ち出してきた文化包丁があった。
 希望は凡て潰えた。
 将来と思っていたものは自分を見捨てた。今更自分を見捨てた将来に縋ろうとは思わなかった。無くなれば良いのだ。消えてしまえば良いのだ。消えてくれないなら。
 自分で凡て消してしまおうと思った。消す為にどうしたら良いか考えた。多方面に渡って考えたつもりだったが、結論は一つしか出なかった。
 死、のみだ。
 己の手で、己を殺すしか思いつかなかった。己の人生を己で終わらせるのだ。決着をつけるのだ。凡てを消す為にはそれが良い。だからそうしようとしたら。何と、出来なかったのだ。
 手首を切ろうと刃を押し当てて躊躇した。手首を切っただけでは中々死ねないという豆知識が行動の邪魔をしたし、そもそもの勇気が出なかった。では首を吊ろうと思うと、適当な桟が見つからず、飛び降りようにも家屋は二階建てだった。死ぬ事など簡単だと思っていたのに、その方法すらまともに思いつかずに、仕方なく家を出た。
 電車を使って死のうかと思って歩いていたつもりが、気付くと使い慣れた定期で使い慣れた線の中に乗っていた。電車の自殺は遺族に損害賠償の義務が生じるかもしれぬと、つり革に捕まりながら思い至って、それは避けようと道路にまろび出る。自家用車なら賠償金と言っても大した額ではない。
 だと言うのに、機敏なトラックが目の前で急停車した。酷くけたたましいクラクションを鳴らされ、運転手の怒号を浴びただけで傷一つ無く生き延びた。生き延びて、すっかり手詰まりになって……その店に入ったのだ。
 死ぬ事が出来ず、殺される事も難しいなら、法制度を利用しよう。そうすれば良いのだ。だから、店に座って思った。
 客を殺して死刑になろう。三人殺せば死刑になれるだろう。簡単な事だ。
 自分は今まで、数え切れぬ程殺して来たのに、と苦笑が零れた。今日までの殺人は罪にはならない。正規の方法を使うなら、何人殺しても罪にはならないのだ。仕事として、ビジネスとして、自分が今後殺す人数など予測は容易い。少なくとも数十人以上は近々の予定に入っていたからだ。それならば。
 自らが死ぬ為に消費されるあと三人分の命くらい、誤差みたいな物じゃないか。普通に生きて行くより余程世の為だし、被害が少ない。つまり、命の省エネだ。たった三人。三人で裁きを受けられるのなら、安い物じゃないか。
 「おい、お前」
 内ポケットに入れた刃を、スーツの上から幾度と無くなぞった。最初の一歩が難しくて、無駄に時間が流れた。西日の差す座席で机を睨んだまま座っていたら、唐突に頭上から低い声が降り注いだ。
 「お前だ。ちょっと顔を貸せ。ああ、それ。荷物も持ってこっち来い」
 顔を上げると、胡麻塩頭の男が仁王立ちしていた。腰に巻かれた黒いエプロンと、肘まで捲り上げられた見事に白いワイシャツから、飲食店の従業員だと分った。恐らくはこの喫茶店の、年からして店主なのだろう。小さくは無い声で命令されて、仕方なく立ち上がった。今、やってしまおう。そう思うより先に店主が長沢の手を掴んだ。
 「表に出ろ」
 裏口まで連れて行かれ、外に蹴り出された。内ポケットの包丁の柄に手をかけようとした瞬間、がん、と顎に硬いものが当たった。視界が大きくぶれて身が支えられず、体勢を直そうと一歩踏み出すともう一発衝撃があった。明確な意識が有ったのはそこまでだ。
 意識が途切れて、目の前にアスファルトの路面があった。痛覚も無く、そのまま視界が暗くなった。体の上にどさりと何物かが落ちて来たのは、あの薄い鞄だったのだと気付いたのは、何週間も後の事だ。
 
 楢岡が背後の長沢を振り返る。日頃動く事の殆ど無い長沢は、散策、と言う楽しい気分ではないらしい。急勾配に早くも顎が上がっていた。
 「Kちゃん、運動不足だ。少しは健康に気を遣いなさいよ」
 分ってるけど。そう言う声さえ辛そうで、思わず苦笑する。人間と言うのは変らない。最初会った時から、長沢の印象は弱者そのものだ。
 弱そうで、実際弱くて、周囲の者が手を差し伸べずにはおれなくなる、そんな存在だ。
 「あの頃俺は本庁にいてさぁ」
 後ろ姿の楢岡が口にする。返事をするにも呼吸が苦しいので、長沢は黙って聞く事にした。
 「仕事が引けてさ。たまたま竹下珈琲行ったら、救急車が来ていて黒山の人だかりになってた。何だ何だと覗き込んだら血まみれの男が担ぎこまれる所で、客とマスターがその周りにいた。マスターにどうしたのと聞いたら、あの仏頂面が言ったモンだよ。
 "おう、荘太郎。俺はただ店を守っただけだ。暴漢をやっつけて責められる意味が分からねぇぞ!"」
 楢岡を含むその場の全員が、その言葉に逆の意味で凍りついた。足下にひしゃげている痩せてひょろひょろの「暴漢」と、背こそ高くはないが小山のような筋肉の持ち主の偉丈夫では、勝負は一から目に見えている。楢岡が吹き出すと、他の全員も笑った。
 「日本は法治国家ですので、暴漢にも人権が有ります。まぁどう見ても過剰防衛だし、マスターの言葉もにわかには信じられなかったんで、当時の神田署がマスターを拘束しちゃうのも無理は無かったよなぁ」
 手錠等の拘束がなされた訳ではなかったが、名目上は逮捕と言う事になった。暴行を働いたのは竹下珈琲店主で、被害者は裏口に転がっていた男と言う事で調査が始まった。
 男は店の裏に数時間は転がっていたようで、通行人が見つけて救急車を呼んだのは「血溜まりが出来ていたから」だった。店主の証言によれば「二発、がんとやっただけ」だそうだが、顎が割れてかなり出血しており、充分に傷害事件と言える。傷害致死にならなかったのが、むしろ幸いと言うレベルだった。
 店主の暴行の角で始まった捜査は、だが、男が病院に収容されてからは様相が変った。男のスーツの内ポケットから文化包丁が発見されたからだ。スーツの中に包丁を入れて持ち歩く習慣は、普通の日本人にはまず有り得ない。急速に竹下珈琲店主の発言は真実性を増し、被害者は同時に容疑者となった。男の身元は、持っていた鞄の中に有った運転免許から直ぐに知れた。
 長沢 啓輔、35歳。葛飾区在住。
 
 「そうそう。病院で気付いたんだ。俺。事情が良く分からなくて。さ。ただ、目が醒めると目の前に制服の警察官がいた。
 運転免許証から身元が分りました、長沢さん、事情を説明して下さい。そう言われた。んだけど。顎ガチガチに固定されてるし。上手くしゃべれなくて。警察の方が同情して。後回しにしてくれた。そしたら。師匠が来たんだ」
 すっかり上った息の下から長沢が言う。運動不足なのだ、徹底的に。
 訪れたのは、胡麻塩頭の男だった。
 竹下裄直(たけした ゆきなお)、76歳。竹下珈琲店店主。長沢を殴り出した偉丈夫は、その日不似合いにも花束を片手に病室を訪れたのだ。
 殴られた原因は凡て長沢にあるので、謝罪する気は一切無い。だが、訳ぐらいは聞いてやる。引いては殴った後に死にかけたのには少々の同情もしてやる。だから。
 謝れ。竹下は言ったのだ。
 「俺。上手く。謝れなかったー…。散々ジタバタして。死んで詫びたいと言ったら。また殴られた。
 もー、ね。病室騒然。速攻通報されて師匠逮捕寸前。俺。毒気抜かれて慌てて詫びて。暴力じゃないと。話し合っていただけだからと。口、利けないから筆談で言い訳して。取り敢えずその日は帰ってもらった。
 次の日も師匠は来たよ。今度は手ぶら、でさ。特に何を問い詰めるでもなく、ただ黙って。ベッド脇に座ってた。俺は…。その時ちょっとおかしかったから。折角来てくれた師匠を、もてなす、事もしなかったと思う。ただ。ぼうっと座ってたんだろ。師匠はどれくらい居たのか。帰る時に言った。
 良いか。お前はたまたま包丁を、胸ポケットに入れていただけだ。分ったな。話は俺が聞く。警察に余計な事は言うな。」
 去って行く竹下の広い背中を、ただぼんやりと見送った。白く霞んで飛んで居る記憶の中で、妙にその情景だけを鮮明に覚えている。
 当時は特別な感慨は何も無かった。実の所その言葉の訳も、この時の長沢には殆ど分らなかった。
 その時の長沢が竹下の言う通りにしたのは、だから意図が有った訳ではない。凡てが面倒で厄介でどうでも良く、判断もつかなかったので言われる通りにした迄だ。顎の怪我の所為で上手く口が利けず、字を書くのも億劫だから「分からない」「良く憶えていない」をメインにやり過ごしただけだ。警察で調書を取り、そのまま竹下珈琲に向い、今度はきちんと詫びた。
 ご迷惑をおかけしました。俺が間違っていたと思います。やはり、自分の処理で他人に迷惑を掛けてはいけない。お世話になりました。すみません。有り難う御座いました。そう言って踵を返した。
 今度こそきちんと死のう。高層マンションか団地かビジネスビルか。外部に連絡口のあるビルならば、何処からでも飛び降りられる。このやり方ならば誰も傷つかぬし、片付けをする人には少々気の毒だが、それとて清掃業者のビジネスに組み込まれるのだから良いだろう。そう思って店から足を踏み出した。
 「おいお前、煙草持ってないか」
 ぶっきらぼうな声が、長沢を引きとめた。振り返ると、最初に見た時のように、仁王立ちの店主が居た。
 吸わないので持っていません。そう言う代わりに首を振ると、店主がちっと舌を打った。
 「使えねぇ奴だな。じゃ、ハイライト買って来い。直ぐだ。お前は俺に詫びに来たんだ。それくらい喜んでするな?すぐ買って来い」
 呆然と立っていると間近で凄まれた。
 「良いか、直ぐだ。走って行って来い。この角に自販機がある。向かいにはコンビニも有るからな」
 不思議にその言葉に逆らえなくて、はい、と答えてダッシュした。
 結局はその日一日竹下珈琲店に拘束される事になり、――それが気付けば現在まで、何と12年もの月日を生きてしまった。
 竹下珈琲店を選んだ偶然が、長沢 啓輔を生かしたのだ。
 それは、運命と言えたろう。運命以外の何物でも無かったろう。
 良くも、悪くも。
 

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