□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 
□ 嘘 □

 日が暮れた山道ほど危険なものは無い。特に素人の山歩きで夜闇ともなれば、それは自殺行為以外の何物でも有りはしない。
 陽が暮れ切る前に帰り道を急ぐが、下りと言うのはこれはこれでなかなかに厄介な物なのだ。疲れた足には上りよりも辛い。膝が笑って力が入らない。
 用意の良い楢岡が点す大型の懐中電灯の灯りを追いながら、長沢は伸ばされる手を素直に握った。
 男同士で手を繋ぐのは、昼日中では相当に恥ずかしい行いでは有る。が、今はそんな事を言っている場合ではなかった。はぐれれば確実に帰れない自信があるし、刻々暮れて行く辺りの景色はその自信を十二分に増強してくれる。思うように力を込めてくれない自らの足を叱責しながら楢岡に縋る。安定した体躯が非常に力強く思えた。
 「Kちゃんが認めてくれるとは思わなかったよ……。その、酷い挫折をしてさ、死のうとして、竹下珈琲にいた事」
 いつもなら拒否感しか感じない話題だが、今は楢岡の呟きにほっとする。気が紛れるのは、今は何であれ大歓迎だ。
 「うん…まぁ。楢岡くんには色々見られてるし…カンの良い君が分らない訳無いもんな。嘘ついても仕方ないから認める。格好悪い事この上ないけどね、君の言う通りだ。
 あの時は…有体に言えば事業で失敗して、それを必死に取り返しているつもりが深みに嵌ってて、仕事に挫けてさ。やはり家族を守る事が第一だ!と家に帰ったら、家族が消えてたんだ。
 不思議なものでさ。絶望したら無気力になると思うじゃないか。何も出来なくなると思うだろ。でもあの時の俺は絶望してて、でも怒っててな。物凄く怒ってて。復讐の為に死んでやらなきゃ気がすまないと思った。見せしめに死んでやると言う、滅茶苦茶な思想だ。見せしめなんだから、世の中を罰する為に何人か殺そうと思った。同時に自分を罰する事も求めた。何人か殺せば死刑になれると。全く、どうかしてる。滅茶苦茶な発想だ。八つ当たりに近いよね」
 握る手に力がこめられる。そうだな、と言う溜息がその後に続いた。
 「あの時の俺は、その発想が理解出来ないし許せなかった。まぁ刑事だし。そんなモン許してるようじゃ失格だけど。
 いや、今なら許せるってんじゃないよ。発想は間違ってるし、許されるべきじゃない。それはKちゃんもそう思ってるだろう。そうじゃなくて何ていうのかな…ある日、分る、と思っちまったんだよな。
 俺さ。Kちゃんが竹下珈琲に来てから4年後?になるのかな。7年前に本庁から追い出されたんだ。有体に言うと…大事な友人が死んで、信頼してた上司に放り出された」
 後ろ姿を見つめる。7年前のこの男に、そんな暗い影が有ったろうか。思い出せない。この男は一言もそんな事を言った例しがなかった。
 「その時色々思い知ったよ。俺が感じたのは、怒りだった。上司に対してだと思うだろ?違うんだな。俺は俺が許せなかった。今の俺じゃなくて、昔の俺が。何故努力してキャリアになっていなかったのか、そこが許せなかった」
 踏み固められた山道を進む。ハイキングコースは両脇にロープが張って有るので、ルートから外れる事は無さそうだ。少し安心するが、握られた掌を剥がす気にはならなかった。
 「俺さ。子供の頃、それなりに優秀な子供だったんだよ。勉強もスポーツもそれなりに出来ちゃうから、必死の努力をしなかった。いつもいつも"それなり"で、それ以上しなかった。学生時分はそれで良かったんだけど、社会に出たらそりゃ通用しないよな。
 学歴社会って奴だ。省庁は全部そうだ。警察もご多分に漏れずそうだ。キャリアが凡てを決め、それを下働きのノンキャリが実行する。ノンキャリに有るのは精々現場のちっぽけな指揮権どまりで、捜査方針を決める権利は無いんだ。最初は俺もそれで良いと思ってた。でも力が無いと言う事は、自分の身も仲間の身も守れないと言う事なんだな」
 懐中電灯を持つ男の体の輪郭を光が舐める。俯きがちの顔のラインにはみだす睫毛が、光を帯びて濡れている様で気に掛かった。
 「何があったか聞いても良いかな、楢岡くん」
 広い肩が振り返り、微かに頷いて視線を戻す。大の男がそうそう泣く訳はないのだが、平然とした顔色にほんの少し安心した。
 「今でも似たような話はザラに有る。面白い話じゃないからざっとね。7年前、同僚が自殺したんだ。
 原因は、不審尋問した中国人に暴れられて、銃を奪われそうになって、相手を撃ってしまったから。弾丸は太腿に当たって、その中国人は死んだ。たまたま動脈に当たったからだ。だがこれは普通に考えれば公務執行妨害だし正当防衛だ。不審尋問くらいで暴れて銃を奪おうとする奴に武器を与えてみろ。被害は警官だけじゃ済まない。そこら一帯の住人が危険に晒される。死は計算外だったが、奴がやった事は正しい。俺は今もそう思ってる。でも世間はそう取らなかった。
 発砲はやり過ぎだ。殺人は許されない。外国人差別だ。特別公務員暴行陵虐致死罪で訴えられて、うろたえるコイツを上司は切った。連日マスコミが押しかけたね。職場に、奴の家に、通勤途中に。
 元々周りに気を使う優しい奴だったから、全然保たなかった。一ヶ月と待たずに自殺した。拳銃は取り上げられていたから、首吊りだった」
 淡々と語られた言葉が、乾ききっているのが痛かった。言葉の裏に、俺だったらと言う思いが何度も浮かんでは消える。
 俺だったら、周りに気なぞ遣わないから平然としていられたのに。俺だったら、何の咎で訴えられても構わなかったのに。俺だったら、マスコミに殺されなどしなかったのに。俺だったら、俺だったら。
 追い詰められて平気な人間など居やしない。傷つく事は分っていて、守ってやりたかっただけだ、肩代わりしてやりたかっただけだ。それがこの男の思いだったのだろう。
 「事が起きた時、直ぐ上司に訴えたんだ。これは悪しき前例になるから、全力を挙げて個人を庇うべきだと。こんな無法が通ったら、警官は職務を遂行出来なくなる。黙って銃を取られる事が、殺される事が正しくなってしまう。警察機構の崩壊だよな。
 だが、そんな事言っても通らない。真っ当な理屈は通らない。だから体面に訴えた。警察は体面を気にする。メンツを重んじる。警察の威信を守る為には、この個人を守るべきだ。そう運動した。個人を守る事が警察のメンツを守る事に繋がる、ガンとして正当な処置だと言い張るべきだと。思いつく限り多方面に訴えたよ。俺、その頃既に公安だったから、検察にも公調にも政治家にも散々訴えた。でもてんで駄目だった。腹がたったよ。何も出来なかった自分に。
 俺が神田署に配置換えになったのは、奴の自殺から僅か一週間後の事。力不足だった」
 楢岡の手を握り締める。足は徐々に下りに慣れて来ていた。
 「楢岡くんは自分の力不足だと言うが……例えば君がキャリアでも、結果は一緒だったかもしれないじゃないか」
 「そうかもしれない。でも、多分、違う結果を呼べた筈だ。俺に、力が有ったら。力を持つべく努力していたら。自意識過剰なんじゃない。気付くのが遅過ぎたんだ、自分の使命に。幾ら悔やんでも、今からキャリアにはなれないし、失った命は戻らない。
 神田署に飛ばされて、ずっと腐ってたよ。その時あんたが言ったの、覚えてる?」
 え? 見上げる先の顔に 笑みが宿る。いつもの明るい笑みではなく、悲しげな笑みだった。
 「ここまで気付かずに来たのなら、一生気付かなければ良いのに、人間てのはそう上手く行かない。気付かなきゃ良いのに、最悪のタイミングで見えちゃうんだよね。凡てが」
 引き戻される。気持ちが、記憶が、その時が。
 長沢が戻るのは、楢岡の示す"その時"ではなかった。長沢自身の"その時"だ。楢岡にその言葉を語った時ではなく、竹下珈琲に刃を持って座り込む事になったそのきっかけの時だ。自らの言葉が引き戻す。意識を、心を。葛藤を、苦悶を、怒りを。その……
 慕情を。
 反射的に顔をそらした長沢を、楢岡が支える。とっさにその手を跳ね除ける。互いがはっとした。
 ハイキングコースは終わりを告げていた。直ぐ先に、テントむしを停めた駐車場が見える。ここまで来れば、指標は必要ない。懐中電灯の灯りも、楢岡の手も必要ない。長沢は俯いた。
 「済まない。君の話を聞いている内に、ちょっと……」
 「あの時の気持ちを思い出した?」
 「……うん」
 楢岡が深々と溜息をつく。夜闇に呼気が白い雲となって広がった。
 「Kちゃんは嘘つきだな」
 「…え?」
 「Kちゃんは嘘つきだよ。上手い嘘つきだ。あんまり上手過ぎて、自分すら騙してる。それって詐欺師とか教祖様とかの才能だぜ」
 言われている意味が分らなくて、きょとんと楢岡を見つめる。正直者だなどと思った事はないが、自分を詐欺師と思った事はない、ビジネス上嘘をついても契約範囲外の事であれば罪ではないし、第一、現在の会話の中に嘘を混ぜた憶えは長沢にはないのだ。
 「もー腐ってさ。腐りきって神田署に居た。仕事にも身が入らなくて使えないっぷり発揮してた。でもそう言う時って、普段見えない物が見えるんだよね。俺にはそれはあんただった。きっかけはさっきの言葉。
 そう、俺は最悪のタイミングで気付いたんだ。あいつの死って言うタイミングで。自分がやるべきだったのにやって来なかった事、自分の使命。こう言うと大げさだけど、つまり俺は駄目な奴だったって事だ。でも限界を知った事で、生きてればその限界は変えていけるってのにも気付いた。その頃は俺バイク乗っててさ。FZ400でここに来て、一晩中さっきの権現様の所に居た。
 色々考えてたのに、最後はあんたの事になってたよ。」
 どう反応すれば良いのか分からぬままに駐車場に付く。手前の自動販売機で割増料金の缶飲料を買ってテントむしに戻る。車内はすっかり冷え切っていた。
 「俺さ。同じ轍は踏まないつもりで居る。組織に甘んじるつもりはないけど、組織は使うべきだと思ってる。本庁に戻ったら、次は上司に飛ばされる事無しにやるべき事をやろうと思ってる。上手く立ち回って、上手く利用して。その為の7年でその為の所轄だ。そう思うようになった要素の一つはあんただよ、Kちゃん」
 「そんな、ご大層な……」
 俺にとってはご大層なんだよ。缶コーヒーの湯気を吐き出しながら楢岡が言う。
 FFヒーターのお陰で急速に温まる車内で、不意に静寂が訪れる。気詰まりになった長沢が誤魔化すようにダウンを脱ぐと、合わせて楢岡もハーフコートを脱いだ。一緒に置くよ、と言う意味で延ばされる手に上着を重ねる。楢岡の行き届いた心遣いに、一々感心した。
 小さなキャンカーは徐々に夜の闇に飲み込まれつつある。辺りはすっかり闇色だが、時間はまだ6時をやっと回ったばかり。普段ならば、そろそろ客が喫茶店からレストランに移動し出す時分で、SOMETHING CAFEにとっては黄昏の頃。まだ宵の口だ。だと言うのに、今夜はすっかり夜更けの気分だ。時間の流れがいつもと違っていた。
 「自分が躓いて初めて、竹下珈琲に来た頃のあんたが分った。最初の滅茶苦茶な顛末も、その後の、ソフトだけど他人を寄せ付けないクールな感じもね。もっとも、俺の"分かった"なんてのはほんの"部分"だけどね。
 気が付いて、考えて、考える内にあんたに囚われてた。でもまあ、俺もそれなりに身の程知っていたし、このまま言えずに終わるのも仕方ないと諦めてもいたんだよ。でも、ここに来て事情が変った。カミングアウトして、告白して、振られた。一度はあんたを抱いた」
 「あ、あのさ楢岡くん。だから俺、保守的な感覚してるからやっぱ女の子が、と言うか女性が」
 「趣味趣向はあるし、好き嫌いも有る。あんたが俺を嫌いならそれはしょうがない。嫌いじゃないが、常連とか友達とかで居てくれと言うのにも納得する。でも、嘘は止めてくれ。決定的なところで嘘を吐くのは、フェアじゃないよKちゃん」
 まただ。
 思わず言をつめて楢岡を見つめる。運転席に座る男の顔はいたって真面目で、ふざけている要素などは微塵もない。ではこれは本心なのだ。だとしたら。
 俺の吐いた嘘とは何だ。
 「何……言ってるんだ楢岡くん?」
 「本当は自分だって分っているんだろ?おれを誤魔化す為に嘘吐いたの?俺に諦めさせる為に?」
 何の事だ。分からない。本当に分からない。
 「Kちゃんは言ったよな。まだ多分、カミさんが好きだ。他の誰かに夢中になるの、もう面倒で嫌だ。俺、男を好きになった事、無い。
 比沙子さんが好きなのは、きっと本当だ。恋が面倒だと言うのも実感だ。でもその根本が全然違うだろ、Kちゃん。あんたは言いたく無い事を、包み込んで別の言葉にしてしまう。嘘だよKちゃん。嘘はつかないでくれ。せめて今は、俺には」
 真摯な目の色に躊躇する。とまどう。楢岡の指し示すものが分らなかった。別の言葉にする?何を。
 「して…ないよ?俺は本当の事を言ってるつもりだよ楢岡くん。俺が君をそこで騙して何の得があるんだよ」
 「本当に……何の得があるんだKちゃん」
 分からない。本当に分からないのだ。この男は何を言っている?
 「あんたが男を拒絶するのは、男を好きになった事が無いからじゃない。今も好きなんだ。忘れられないんだ。だから他はノウサンキュウ。そう言う事だろ?」
 「……は?」
 分からない。この男が何を言わんとしているのか、本当に長沢には分らなかった。だが。
 奇妙な胸騒ぎが湧き上がる。頭の中で警報がけたたましく鳴り響く。鼓動が跳ね上がる。それ程の反応を示す身体の中で、凡てを制御している筈の脳だけが変化を拒絶する。反応の理由が分らない。自らを満たす、やかましい警報の意味が分からない。
 何だ。一体何だと言うのだ。
 楢岡が、缶コーヒーを飲みきって大きな溜息をついた。
 「"大貫先輩"だよ」
 早いなあ、もう飲み切ったんだ。素頓狂な言葉が頭の中を過ぎていく。
 長沢の手の中で、まだ蓋を開けないままの缶飲料が熱を点した。掌を温める意味で軽く握っていた物に力を込めたからだとは、その時は気付かなかった。他の思考が邪魔をしていた。―― いや違う。
 思考など、何も有りはしなかった。頭の中は真っ白だった。呆れるくらい純白で、しかも満杯だった。ぎゅうぎゅうづめの白。
 何も。考えられない。
 ぎゅっ、咽喉が奇妙な音を上げた。
 「あんたは今も"大貫先輩"が好きなんだろ?忘れられないんだろ?だから他の男を好きになんてなれっこない。
 そうだろう? Kちゃん」
 遠い滝の音が耳の中に蘇る。瀑音が満たしていく。耳を、脳を。
 聞こえたのだ。確かに。夜闇の中で。自分を押し流していく滝の音が。遠く。近く。
 

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