□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 口の中のものを咀嚼する。長葱と豚のばら肉。出しに柔らかく溶けたバラの油が、口の中で葱に絡みついて丁度良い。
 ゆず醤油とゴマだれとお好きな方をどうぞと言われて、選んだゆず醤油も中々に美味い。ゆっくりと口の中の物を味わい、飲み込んでから深呼吸をした。
 「ハ !?」
 「だから。俺、時ちゃんと別れた。去年の……28日」
 長沢の眼が大きくなり、何度か瞬き、伏せられた。
 「ハァ――― !? 君一体、何考えてんの !?」
 「お、来ましたか、今日二度目の怒号。俺Kちゃんと付き合って十年以上経つけど初めて。それが今日いきなり二度も。超レアゲット」
 「茶化すなよ。何だってそんな事…」
 「時ちゃん大事にしたかったからさ。決まってんだろ」
 ぶっきらぼうな物言いに長沢が口を閉じる。楢岡はカップの中身を煽って、次を自分のカップに注ぎ入れた。長沢が慌てて注ごうとしたが、間に合わなかった。
 「……何で」
 目を伏せた表情は楽しげではなかった。今日の楢岡が、何かと言うと黙り込む理由も分った。意識してテンションを上げなければ、沈み込みそうな気分だったのだろう。俯く目許に濃い影が落ちる。何もそれは長い睫毛の所為だけではあるまい。
 「俺達さ、付き合って三年経った。最初はお互いに"代用"みたいなモンだった。時ちゃんは彩華と付き合ってたし、俺はフリーだったけど、女がいなかった訳じゃない。Kちゃんの事も有ったしね。
 話して気が有って、それで何となく始めた。体の関係のある親友、みたいなスタンスだった。束縛しあわない、でもお互いを尊重する。それで上手く行ってた」
 だったら何で。口に出さずに見つめる。楢岡は苦笑して片肘を突いた。
 「時ちゃんに、荘太が好きになったと言われた。一緒に暮らそう、結婚しなくても良い、子供作ろ。そう言われた。そんな事、女に言わせる男ってどーよ。他人にはわからないだろうけど、俺にとって時ちゃんは唯一無二だ。とても大事に思ってる。実際俺、大事にしてたつもりよ。でもさ。
 俺は時ちゃんのダンナにはなれないよ。少なくとも今は」
 だから。
 鍋が噴く。長沢はカセットコンロの火を切った。
 「別れた。俺に拘らないで、もっと良い男見つけた方が絶対良いだろ。時ちゃんなら引く手数多だし、金持ちの色男が直ぐ捕まる。だから、オッサンのケツ追い回してる男なんか直ぐ忘れて、良い恋愛してくれ。そう言った」
 「……それで」
 うん、楢岡がカップに口をつける。頬杖の上に体重をかける。
 「静かだったよ。そう来たかー、って言っただけ。その後にあっさりと、うん分った、ってさ。二人して相当酒飲んだんだけど酔わなくてな。金の無駄だって帰る事になって、時ちゃん所送ってって、別れ際に言われた。
 さよなら荘太。失恋したら連絡頂戴。私がどうしようが私の勝手だモンね。」
 その時の表情が、見えた気がした。
 葛木 時子の声が、長沢の耳に中に蘇る。あれはまだ、つい年の暮れの事だ。SOMETHING CAFEに訪れた時子が、長沢に切り出したのだ。荘太を苛めないで。あいつ真剣なんだよ。分ってやって。
 時子からすれば、長沢は恋の障害になる邪魔者の筈なのに、真剣な顔で言った物だ。
 
 貴方が荘太の為に泣いてくれるなら潔く身を引く。笑っちゃうんだけど私、今は荘太に真剣なんだ。だから、あいつが本当に好きな人と結ばれるなら、邪魔、出来ない。
 
 言って浮かべられた表情が脳裏に蘇る。 肩口を覆うつややかな黒髪。端正な横顔。とびっきりの笑顔が似合う人が浮かべて居たのは、泣き出しそうな、寂しげな微笑だった。
 あの時子が"勝手"と言ったのか。彼女が言う"勝手"など一つしかない。それ以外有り得ない。彼女は言ったのだ。
 失恋したら連絡頂戴。…勝手に待ってるから。
 長沢は面を伏せた。
 「君最低。あんな良い子を振るなんて最低」
 「全く同感だね。俺は最低最悪です」
 「時ちゃん、待ってるって言ってるんじゃないか。さっさと時ちゃんのところへ行けよ」
 「Kちゃんに振られたら時ちゃんって、そんな事出来る訳ないでしょ」
 「出来るだろ。俺、キッパリ振ってるんだから、まだ間に合うだろ。さっさと時ちゃん所に戻れば良いんだ。どう考えてもそれが一番だ」
 「はぁ。で、俺が振られた理由って何でしたっけ」
 「俺は男なんて好きになった事な……!」
 言いかけて、息を呑む。そこまで言って初めて納得する。真正面に楢岡を睨みつけたまま凍り付く。目の前の顔が困ったような笑みを浮かべた。
 「……な」
 言いたい事がストレートに伝わった。
 長沢が出した結論は、いつも"男は好きにならない"だったのだ。好きになった事など無いから、今後も無い。そう言い切ってしまえば事は済んだ。考える必要も無いから考えなかった。相手から強引に求められれば利用する時はある。だがそれだけだ。心は動かない。動くはずが無い。何故なら"男は好きにならない"からだ。
 自分の中の"芯"が揺らぐ。長沢は黙り込んだ。
 「ゆっくりで良いよ」
 長沢のカップに、楢岡が酒を注ぎ足す。冷酒が嫌なら燗も出来るよ、と小さな鍋には無理が有るちろりも脇に置かれている。長沢は黙って注がれた冷酒を飲んだ。
 「ただ、考えて欲しいんだ。俺は最悪かもしれないけど、これでもいつも真剣だ。思いには真摯でいたい。自分のにも、人のにも」
 
 新年二日の月は弓張り月だった。下弦の月とも言われる形。高地の天気は変り易いと聞くが、今日は安定しているようだ。テントむしのビニール窓から顔を出す月は、暗い中でほの白く輝いていた。
 僅かに灰色がかったそれはまるで……。二人の人間の頭を思い浮かべて苦笑する。冬馬と大貫。色を脱色して灰色になったそれと、銀髪に色を被せたそれ。
 勿体無い。かつて本人にそう言った事が有ったっけ。
 青みがかった綺麗な色なのに、何故わざわざ黒くするんです。勿体無いですよ。
 そう言うと一瞥されて鼻で笑われた。都合が良いから色を乗せて居る。そんな事よりお前が気にするべき事はもっと他に山程有るだろう。発想が下らない。
 どう言う都合かは聞かなかった。ただ、青白い眉と睫毛、赤い瞳のコントラストに魅せられて、そんな都合は無視した方が良いと思った。
 今でも好きなんだろ。忘れられないんだろ。だから他の男を好きになんてなれっこない――、か。
 何故あっさり否定出来なかったのか。それはナイ。その一言で凡ては終わった筈なのに、何故その一言が出なかったのか。
 どうしようもない焦燥感と義務感と飢えは思い出せる。恩に報いなければならないと言う思いはデフォルトだった。だがそこに慕情が有ったのかどうかは。自分では分からない。分からないから――否定出来ないのだ。
 前が見えない不安は幾度と無く体験してきたが、後ろが見えない不安は初めてだ。記憶力は良い方だと思って来たし、実際今もその感覚は変っていない。憶えている。はっきり覚えて居るのに、分からない。ただ胸が痛かった。
 「Kちゃん」
 テントむしは早速キャンカーとしての力をフルに発揮している。備え付けのテーブルは折り畳まれ、後部座席はただいまフルにシートの状態だ。このまま横になれば、大の男でも並んでギリギリ二人眠れる。
 「ポップアップルーフのあそこ、あれベッドに出来るんだ。つまりここと上で、二段ベットになる。上が良い下が良い?」
 悪戯っ子よろしく歯を見せて笑う顔は温かくて好きだ。
 思えば竹下珈琲に流れ着いた最初の一ヶ月、この男には随分救われた。兎に角、見ていて"飽きない"男だったのだ。
 ちゃらんぽらんなのかと思えば、妙に的を射た事を言うし、来れば必ず店主と言い合っていた。話題はいずれも下らない事で、何故その話題でそれほど決着を付けたいのか傍で聞いていて可笑しかった。
 キャベツの一番美味い食い方は、とか、じゃが芋と組み合わせて美味いのはベーコンかハムか、とか、珈琲に合うのはチョコか煙草か、とか、長沢からすれば"人による"の一言で終わってしまいそうな事柄を延々一時間も議論しているのだから呆れた。周りはまた始まったとばかり気にも掛けぬし、店主も楢岡も事が済むと平然としているのが不思議だった。険悪なのか、仲が良いのか分からないと思っていたある日気付いたのだ。無愛想な店主がこの男の姿を見ると少しだけ嬉しそうなのを。議論を吹っかける為に、日頃メモなどを取って居ることを。
 店主のお気に入りの常連は、週に二〜三日は訪れた。女連れだったり、見るからに胡散臭い相手を連れて来たりしたが、ある日"俺はそう言う商売をやってるから"と耳打ちされて納得した。聞かない方が無難な職業は聞かない方が良い。
 「まだいいよ。ここで月見ていたい。……駄目かな?」
 きょとん、とした顔が横に並ぶ。良いけど、といいつつ月を見上げる。
 「お、下弦の月。知ってるかKちゃん、あれ下弦の月って言うんだぜ」
 「知ってるよ。弓張り月とも言うんだろ」
 「あ、そうなんだ。俺そっちは知らないな」
 「ンだそれ」
 笑い合って月を見上げる。
 キャンピングカーにした訳が、長沢にも何となく分った。最初はどんなエンジョイ精神かと思ったが、その実。この男は本気でトコトン語り合う心積もりだったのだろう。
 一筋縄で行く個性でも年でも無いから、徹底的に言い合う為に隔絶された空間を求めた。他者の邪魔は一切欲しくなかった。議論が行き着くまで他の要素は欲しくなかったから、街からも離れた。一番良いロケーションは、確かに陸の孤島のキャンカーだ。今更ながら、非常に合理的なチョイスだと思う。
 確かに長沢は、逃げ場が無いから話したのだ。気が紛れないから話したのだ。これが旅館やホテルだったら、フイと部屋を出て終わりだ。自分と向き合う事などしなかった。何よりそれは痛いから。――恐ろしい事だから。
 「なぁ、楢岡くん、男を好きになるってどんな気持ち?」
 穏やかに笑い合っていた空気が凍りつく。唐突に何を言い出すのかと横を見る。しょげたまま月を見上げている横顔が手を伸ばせば届く距離に有って、つい抱き締めたくなる。自分にストップをかけるのに精一杯だった。
 「どんな……って。変りねーだろ好きになる気持ちに男も女も」
 「変り有るだろ。根本的に自分と違うから女好きになるんだぜ。触ったら柔らかくてドキ、とか、良い匂いだな〜とか。話してて新しい面見つけて妙にドギマギして、何気ない表情を可愛いと思って、頭から離れなくなっちゃったりしてな」
 「全く、同じですね。少なくとも俺の場合は」
 長沢が横で強張る。話の流れから、発想が何処に流れ着いたのかすぐ分った。好きになれば、どんな男も必ず相手の裸を思い描く。その体に触れ、かき抱き、己をその体の中に沈める事を想像する。妄想する。長沢の疑問はそこに流れ着いたのだ。有体に言えば。
 "俺で抜いた?"と言ったところだろう。
 「……あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜………。Yes。ストロングYes」
 「うっわ、最低」
 「今の場合、むしろ最低なのはあんただろ」
 月を見上げる。眼鏡をかけていても長沢の視力では月に居るうさぎは見えない。杵も臼も見えない。
 月だけではなく現実も良く見えていないのだ。自らの心すら。
 「俺は……先輩にそんな事……」
 思っていない。そう言えずに口を閉ざす。自分の気持ちが分らずに膝を抱える。隣で大きな溜息が漏れた。
 「別に好きじゃなくてもエロ妄想くらいすっだろーよ。胸のデカイお姉ちゃん見りゃ揉みてぇ!と思うし、綺麗な脚見りゃ舐めてー、と思うでしょ」
 「………うん」
 「あ、思うんだ。今のは少しネタ込みだったけど。俺、あんまり思わないかな。どっちかと言うとお尻派。安産型のデカ目良し」
 「…脚。細いのよりすこしむっちり系が良いな。こじんまりしたのより、甲の長い足が良い」
 互いに尻フェチ、脚フェチと言い合って黙る。
 「同じだよ。例えばKちゃんが男に対してそう思ったとして、それは普通の事さ」
 そうかな。尊敬している人に対してそんな思いを抱いたら不遜じゃないか。不道徳じゃないかな。口に出さずに思う。神様のような人なんだぞ。そんな大それた事。
 「思ってないよ。……ただ」
 神様のような人だから。その人に報いようと、報いたいと、日々動いていたからこそ、ただ。
 足下にも及ばぬと見上げ続けて、その人の身代わりにと体を開いた事さえあった人だった。それでも良いと納得出来た。その人にして貰った事に報いる為には、これくらい何でもないと思った。必死だったのだ。その人の求める成果を見せようと必死だったから、最大限の努力をして、その人の要求に可能な限り応えて、無理をして無理をして無理をして、だから、ただ。ただ一言で良い。
 「褒めて欲しかったんだ……俺…」
 胸を突かれて横を見る。しょぼくれた髭面の男が、泣きそうな顔で月を見ていた。
 月の光が眼鏡の影を頬に描いていて、影なのか、涙の軌跡なのか分らなくて、思わずそれに触れた。触れて、暖かいそれを覗き込んだ。
 月の光を帯びた瞳が振り返る。潤んだ瞳に魅せられて、引き寄せられる。髭の感触を引き寄せる。自らの方へ。腕の内側へ。
 唇が触れて、そのまま抱き寄せる。触れるだけの口付けを変えたのは長沢の方だ。
 濡れた唇が戸惑うように開いて、暖かい呼気が漏れた。だから楢岡はその中に忍び込んだだけだ。無理強いはしなかった。出来なかった。触れるだけで傷つけそうで、心の片隅が脅えた。
 長沢の許す範囲だけを触れて唇を離す。そのまま抱き入れたのは、親が子供をあやすような心持ちだった。胡坐をかいた格好の真ん中へ、細い身体を抱き入れて頭を撫でる。丁度右胸で、長沢が溜息をついた。
 「あんたは最高だから。お世辞じゃなくて最高だから。目端は利くし、賢いし、働き者だし、正義漢だ。誰だって褒める。普通褒める。最高なんだって胸を張れ。そりゃちょっと優柔不断な所もあるが、そこがイイんだ。あんたが笑っててくれれば俺もうそれだけでイイ。」 
 長沢が苦笑する。苦笑して楢岡の顔を両手で掬う。
 「良い男なのにな。人を見る目だけは無いんだ」
 口付ける。どちらから先に仕掛けたのか分らなかった。だが一回目のものとは違い、互いに互いを貪るような口づけになった。首筋を辿り、腕を背中に這わせた。引き抜いたシャツの隙間から素肌に掌を滑らせ、熱い肉を抱き締める。元々緩い服を好んで着る長沢のジーンズの中に腕を入れる。尻から脚へ流れを辿って腕を滑らせる。体勢を崩して仰向けに転がる身体にのしかかる。眼鏡に月の光が撥ねて、楢岡は動きを止めた。
 マズイ。心中で自らをしかりつける。今日の目的はこれではなかった筈だ。勿論、下心はあるから準備にぬかりはないが、これが目的ではないのだ。長沢の身体ではなく。心が欲しい。その為の論争で、諍いだ。
 必死に欲望を飲み込む。これ以上1mmでも進めば歯止めが利かなくなる。自分を押し留めようともがく楢岡の頭に、そっと長沢が手を置いた。
 「エロ妄想……でも良いか?これ」
 眼鏡の奥の瞳が見下ろす。戸惑ったような顔の頬が染まっていて。もう無理だ、と思った。
 

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