□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 一日空けただけだと言うのに、古巣に帰った気がした。
 当然ながら、休業中のSOMETHING CAFEの前面にはシャッターが下りている。下りたシャッターには「謹賀新年」の文字と鏡餅の絵が描かれた貼り紙がしてある。これはいけない、と思った。
 時節の挨拶等の貼り紙は、日頃の感謝の心を込めようと、いつも自分で書く。だが字は兎も角、長沢に絵心は無い。正月だから鏡餅と安易に選んで描き出したら、これがなかなかバランスが難しかった。橙、水引、二段重ねの餅を描いた所で紙の下が詰まり、三方を描くスペースがなくて諦めた。まぁ良いかと貼ったのだが、旅から帰って見るに、やはりこれは失敗作だろう。酷いと我ながら呆れた。
 思い起こせば、竹下翁は、こうした物が非常に上手かった。太い筆で書かれる挨拶は見事な達筆だったし、その筆でちょいちょいと描く干支の絵などは、いずれも活き活きしていた。長沢は脇で見ていて感嘆したものだ。
 シャッター前で貼り紙を取り外そうかと悩み、今日一日の事だからと諦めて勝手口に回る。どうせ書き直しても、大差ない絵しか描けぬに決まっている。
 「時々クマか犬かネコか分からないカプチーノが来る事がある。まぁ俺はどれも可愛くて好きなんだけど。ちなみにこれは…犬っぽいクマだと思うけど正解?」
 楢岡にかつてそう言われた事が有った。客の全員が恐らくそれと知った上で、SOMETHING CAFEのカプチーノを飲みに来てくれているのだからそれで良いのだ。絵心の無さも愛嬌だ。カプチーノの基本のリーフはキッチリ作れるし、幾何学模様なら器用に出来るのだから問題は無い。
 連想が絵心の無さから楢岡に結びついて頭を振る。自らの痴態をフルコースで思い出して、顔に上る血の気を振り払う。身体の奥底がしつこく脈打っている気がした。全く、自分はどうかしている。
 勝手口を開ける。冷え切った空気は、出て行った時のままだ。まずは階段を上って住居スペースに落ち着く。気がかりが有った。
 
 元旦当日。正確には大晦日から、長沢は古本屋"玄之堂"にいた。
 羽和泉 基が6冊もの本を上梓しているとネットで知り、直ぐに読みたかった長沢は本屋に向ったのだが、この不況のおり、古い本を並べておく本屋などどこにも無い。最新の一冊はかろうじて見つけたものの、現在これといった話題の無い自明党の一代議士の本など好き好んで置く本屋も無いのだ。困り果てて玄之堂に向うと、無愛想な主人がさらりと言った。
 「帝大経済学部の先生の本か。家の倉庫で埃かぶってら」
 買う、と言ったら買わないで良いから家で読んで行けと言われた。孫も来ない年の暮れに暇なのは、景気が悪くていけねぇ。年越し蕎麦くらい奢ってやるから読んでけ。
 独り身の寂しさが良く分かる長沢は、言われる通りする事にした。その日二度目の年越し蕎麦を主人と食べ、主人の茶の間で、主人が見る紅白歌合戦に耳を弄ばせながら主人が見つけ出して来てくれた4冊の本を読んだ。
 一冊目は、ほぼ純粋に経済読本だった。二冊目三冊目は自伝的なエッセイ本、四冊目と最新作は国民に向けての修身、心得の啓蒙の本となっている。後に行くに従って政治色は濃くなりはするものの、平易な文章で読み易く、その代わりに突っかかる事もない。中では一冊目が、富める国で眠る1500兆円を超す個人資産の活用について語っていて面白い。政治家が経済学者なのは良い事だ。と言うよりは、まず基本と考えても良い。
 国家は巨大なコングロマリットだ。上手く経営するには、経済の専門知識は不可欠なのだ。その点、筆者である所の羽和泉 基は良い。小さな所に拘ってデータを弄繰り回す癖が有るのに、決める時は大雑把だ。大胆に言い切ると、後は振り返らない。
 調査は細心に、決定は大胆に思い切って。それが筆者のポリシーで、実践しているのが気分が良い。
 4冊目を伏せて、帰ろうとすると、主人に新しい3冊を差し出された。今度はソフトカバーのブックレットだった。一番上の「東京・北京フォーラム」と書かれた本の表紙で、日支の名だたる政治家がそれぞれににらみ合っており、画面の隅に朗らかな表情の羽和泉がいた。羽和泉 基個人の本ではなく、彼が寄稿した論文や、或いは記者会見での様子が掲載されているものなのだ。いわゆる会議録や言論、論文集の類だった。
 「こう言う形式のなら、まだ十冊(じっさつ)位はあるぜ」
 結果、夢中で読む内に夜がくれ夜が明け年が明け、読み終わると同時にそのまますっかり寝入ってしまい、家に戻ったのは陽も傾く四時近くだったのだ。
 帰ってみたら、居間が少しばかり荒れていた。卓袱台の上には読みかけの雑誌が開かれたまま伏せられていたし、台所のテーブル下には果物と野菜が袋に入ったまま放置されていた。
 冬馬か。そう思い、携帯に掛けてみたが繋がらず、仕方なくメールを打った。
 置かれていた袋を掴んで、中身の野菜が大根、人参、三つ葉と来てやっと気付いた。冬馬は恐らく、日本の正月を味わおうと思ってここに来たのだ。日本の文化に慣れぬ異邦人の青年だからこそ、正月を味わいたかったのだろう。失念していた。5、6歳で日本から出て以来、ずっと一人ぼっちだったと聞いていたのに。
 気付いてからしまったと思ったがもう遅い。自分は明日の早朝にはここを離れてしまうし、冬馬にしても連絡が取れぬという事は彼なりに忙しいのだ。気にはなったが、こちらも明日の為の用意がある。帰ってから連絡を取ろうと決意する以外、その時の長沢に出来る事は無かったのだ。
 
 出て行った時のままの住居をぐるりと見渡して思い至る。
 慌てて、居間の留守番電話の再生ボタンに指をかける。機械の音声が、メッセージは、五件、です。と言った。
 欄天堂大学の酒井医師からの物言いたげな新年の挨拶、看板娘からの「旅行楽しんでますかー。お土産待ってマース」の命令、時期を選ばぬセールス電話二件、無言一件。冬馬からの物は無く、これで五件。
 店の留守番電話も同様で、客からの短いメッセージと、同業者の挨拶、予約、確認のメッセージ。青年からの物はない。
 固定電話を総ざらいし、小さな落胆を感じた後に初めて気付く。上着のポケットに有るのは、もう一つの通信手段ではなかったか。しかも現在ではもっとも手近な。ポケットから引きずり出して携帯電話の電源を入れる。旅の間は、矢継ぎ早に彼方此方に移動する為、面倒で切っていたのだ。捜査の最中に気を散らしたくなかった。じっくりと考えながら動きたかった。携帯を起こして画面を繰る。
 出会い系スパム123件の中に、一通、待っていたメールがあった。長い件名やアドレスに埋もれるように、ノンタイトルでTO-MA。
 開いてみると、表同様、中身も実に"らしい"メッセージだった。
 
 おかえり、啓輔。
 話がしたい。
 ― END ―
 
 思わず苦笑が零れる。簡潔といえば簡潔だが、素っ気無い事この上ない。半ばその素っ気無さにお返しのような気持ちで返事を送り返した。
 
 ただいま。土産買ってきた。時間が空いたら来てくれ。
 

 私物と言っても、冬馬がこれだけは手放せぬと拘る物はさしてない。強いて挙げるなら、手首に嵌ったままのリストバンドくらいのものだ。これは既に運び込み完了しており、家具ではない。
 他にはPCと本数点。着る物も有った方が良いので一応は持ち出したが、凡て纏めてもボストンバック一つで事足りた。肩に担いで新居に入れば、彼の引越しは終了だった。
 羽和泉が用意した住居は、いわゆる”居抜き”の住宅で、家具も何もかもが揃っていた。恐らくは主人が旅行なり海外出張なりした為に、その間貸し出されている住居の類なのだろう。部屋のあちこちに生活感が有った。
 リビングを占拠して居る図体のでかいオーディオ機器や、玄関で必要以上に存在感を主張する華美なファッションミラー等、むしろ冬馬が現在暮らしている住処より、よほど血が通っている。
 冬馬が私物を分別していると、カート付きの旅行鞄と共に唯夏が新居に戻って来た。それみろ、と思う。
 「私物はそれだけか。俺とそうは変らないな」
 唯夏は無言で上りこみ、冬馬の部屋の私物を確認してから改めて鼻で笑った。
 「馬鹿を抜かすな」
 大型のダンボールに三つ程の私物とエレクトーンを送ったと言う。持ち運ぶより面倒が無いので、宅配便の受け取りサービスを利用して、元の住居から送ったそうだ。ダンボールの中身は殆どが服とCDで、今日中には着くと言う。
 「セルバ育ちのゲリラと一緒にして貰っては困る。私は文化人だ。クラシックを好んで聞くし、ピアノの嗜みもある。貴様のような無趣味な野蛮人ではないぞ」
 家の造りは2LDK。家の両端、南西と北東に個人の居室があり、間にリビングやキッチン、水周りが入るので比較的個人スペースは尊重される。"野蛮人"は中っ腹で唯夏の部屋に踏み込んだ。
 部屋の作り自体は冬馬の居室と大差ない。窓が開く方向は同じで、部屋の広さは3.5平米強。日本式だと六畳から七畳程だろう。シンプルな木製のベッドと、同じく木製だがアンティークの香り漂うライティングデスク、ローチェストが配置されており、冬馬の居室より女性的だ。恐らくはこちらの部屋は元々女性が使用していたのだ。華美すぎぬ佇まいが唯夏に良く合っていた。
 冬馬が憮然と立ち尽くす間に、唯夏は手早くローチェスト周りに幾つもの小物を飾り立てる。旅行鞄から出て来たのは、幾つもの写真立てだった。
 そこに居並ぶのは、目の前の冷たい人形のような顔をした女の思い出なのだ。幾つもの見知らぬ人々の姿と、笑顔。楽しげな唯夏が幾人も、そこに居た。
 現在の唯夏とほぼ変わらぬ面相の女と、幾人かの友人、制服姿の集合写真、街々。制服には"DINCOTE"と有った。かつての敵。ペルーの対テロリスト警察部隊。その制服に身を包んで居るのは、目の前の女だ。
 唯夏は冬馬の目線を追って、小さく頷いた。隠すつもりは無い。その動作はそう言っていた。
 「お前は私の事を何も知らない。私はそれなりにお前の事を知って居るがな」
 一つ一つの写真を見る。最後の一枚が引っかかった。
 「私がDINCOTEにいたのは最後の数年だったから、お前達とは余り接していないが……」
 「これは、お前の母か?」
 彼女の言葉を青年が千切る。彼が差し出したのは、年配の女性と共に笑う唯夏の写真だった。時は2001年。ペルー、リマ。
 「そうだ。もう亡くなったがな。六年……ほど前だ」
 そうか。青年が言う。いつも通りの無表情の中に、ぽつんと何かが燈っていた。
 フレームの中に二つ並んだ笑顔は、何処となく似ていた。年配の女性の二重顎は、若い頃は隣の女と同じシャープな線を描いていたろう。笑いに丸くなる瞼も口角の上った口許も、よく似ていた。母と娘の笑顔のシーンがそこに有った。
 「お前は母親の声を憶えて居るか」
 「ああ」
 「そうか。俺はもう忘れた。全く、思い出せない。顔も、殆ど分からない」
 写真を見つめたまま動かぬ青年の横顔を見る。端正で陰気な顔を。そこにどんな感慨が有るのかは読み取れない。だが恐らくは。空っぽではないのだろう。
 黙っている唯夏の視線の先で、大きな手がそっと写真立てを置いた。静かで、優しい仕種だった。
 「唯夏……夕麻。俺はお前の事を何も知らない。姉弟なら知らねばならないな。それはお前が教えてくれ。俺はそのまま覚える。必要の無い物は教えないでいい。
 例えばお前がDINCOTEだった事。例えばお前が俺の同志を大勢殺していたとしても、俺は全く気にしない。あの時にゲリラの俺がDINCOTEのお前に会っていたら、俺は躊躇無くお前を殺した。それが俺の役割だった。お前も同じだ。ゲリラ殲滅がDINCOTEの役目だった。過去の事を今更どうこう思わない。お前が必要と思うものだけ、俺に教えてくれ」
 そうだな。唯夏は呟く。この男のこうした現実的で合理的な部分が彼女は好きだ。彼女の中にも全く同じパーツがある。非常に理解し易かった。過剰な情緒に必要性は感じない。一番重要なのは現在と、未来だ。時に美し過ぎたり汚かったりする過去は、こうして写真立てに入れて飾るか、戸棚の奥にしまいこんで置けばいいのだ。価値観の共有を実感して頷く。
 「これからのために必要な事を教えよう。お前も私に教えろ。……二人だけの姉弟だからな。朝人」
 灰色の真摯な瞳が唯夏を見下ろす。理解出来る。冬馬も感じた。この女の感覚は自分と同じだ。ドライで、物理的で、合理的。やり易い。
 携帯が腰で震えた。開いてみると、簡潔な文章が笑っていた。目の前の女が、似合わぬ笑みを浮かべた。
 「長沢か」
 どきりとして女を見る。見抜かれた事で素直に動揺した。その動揺を晒してしまった事に羞恥心が湧き上がる。出そうとした言葉を咽喉に拒まれて、冬馬は息を呑んだ。
 「……っ何故…」
 「お前、少し気を付けるが良い。少年のようだぞ。目がドキドキしている。見え見えだ。
 会って来い。きちんと話して、すっきり忘れて来い。――― 当分の間は」
 頷いて踵を返す。恩に着る。その一言を言えたのは廊下の中程まで走り出した後だった。走り出す。オートロックのマンションの外へ。長沢につながる空の下へ。
 冬の空は澄んで青かった。
 

 
 鍵穴にキイを突っ込むのももどかしく取っ手を回す。声を掛けると同時に階段を上る。低い天井に頭を打ちつけぬ程度に、二段飛ばしで階段を上る。階段ホールから飛び出すと、急須を持った長沢とぶつかりそうになった。
 素早く反応して驚く事もない青年に比べ、慌てて避けた長沢は体勢を崩した。倒れぬようにと、青年が長沢の急須を持ったままの右手を掴む。掴んで、そのまま動きを止めた。
 「早っ! え?お前どこでメール取ったの? 俺、メール入れてからまだ20分も経ってないと思うんだけど。そんなに土産が気になったか?」
 驚いた顔のまま言って、最後で微笑む。羽和泉とは種類の違う、柔らかな笑みにほっとする。平凡で垢抜けぬかもしれぬが、そこが安心の素なのだ。青年の警戒を解くにはこれで充分だ。……普段なら。
 「啓輔……、これは一体、どうした?」
 袖口から胸元。奇妙な模様を描く黒い斑点は、かなりの個数、かなりの広範囲に散っていた。袖口のものは明らかに肘に向かって流れ落ちる軌跡を描き、広いとは言えぬ胸元に散った物は、滴った後に縦横無尽に擦れている。明らかな。時を経た、――血痕。
 言われて初めて気付いたのか、長沢は自らの袖口を見て、改めてうわっ、と声を上げた。
 「わ。上着着てたからすっかり忘れてた。ちょっと放して。脱ぐから」
 脱ぎながらシャツの状態を点検して、こりゃ駄目だななどと一人ごちて居る。別のシャツを着て、もういいぞと笑うが、放り捨てられた血塗れのシャツが気になった。
 「誰の血だ、啓輔?」
 冬馬の問いに合わされる瞳には動揺は無い。朗らかないつも通りの表情の、温和な瞳だ。
 「誰って……俺の血だよ。他人の血な訳無いじゃないか。怪しい血じゃないよ。俺、鼻血癖有るじゃないか。あれだよ。あれ全部鼻血。やっぱ旅行とか、慣れ無い事すると体調が崩れるのかな。長々止まらなくて失敗した。冬場は上着着てるから忘れてたんだよ」
 言葉に嘘は無い。それでも気になった。長沢の鼻血癖は知っている。動揺が鼻血に繋がる。パニックになると鼻血が出る。初めての夜も、床に散った彼の鼻血を拭ったのは、この自分自身なのだ。良く知っている。
 だからこそ気になった。あれが全部鼻血と言うなら、あれだけの動揺を目の前の男から引き出す物とは一体何なのだ。
 「それより冬馬」
 シャツから目を放せぬ冬馬の前に、悪戯っぽい笑みが立ちはだかる。思考に沈みかけていた青年は、間近に見上げられて驚いた。黒縁眼鏡の奥の目が、青年の微かな驚きににんまりと笑う。意図が知れなかった。
 「明けましておめでとう御座います。本年もよろしくお願いいたします」
 良く通る声で言い切って、目の前の人物が深々と頭を垂れる。青年も慌てて腰を折った。近過ぎて、きちんと折ると長沢にぶつかりそうだと思ったら妙な態勢になった。体勢がおかしいと言葉も出てこぬもので、よろしくと言うのが精々だった。
 「はいこれ、お年玉」
 派手な模様の袋を鼻面にぶら下げられる。焦点を合わせる為には、寄り目にならねばならぬ距離だ。派手な模様の真ん中には、赤い文字で「お年玉」と書かれていた。
 掠れかけた思い出が蘇る。子供の頃母に貰ったのも、こんな袋だったろうか。ろくすっぽ意味も分らなかったのに、貰えた事がとても嬉しかった。宝物だと思った。
 受け取って、戸惑う。お年玉を貰うのは、子供だけの特権ではなかったか。冬馬は既に子供ではない。有り難うと言うのも、何か違う気がした。
 「なぁ冬馬。遅れたが、お正月、やろう。お屠蘇飲んでお節食って、初詣に行こう。お前どうせ未だ、どれもやってないんだろ?」
 何も言えずに俯く。長沢が言う事は、いつも正しい。すこぶる正しい。正しくて、―― 少々癪だ。
 「……ど…」
 「ん?」
 「ど。どうせ、とは何だ」
 「え?あ、もう済ました?どれ済ました?一部?全部?」
 癪だ。少々ではない。物凄く癪だ。癪で、嬉しい。癪なほど、嬉しい。
 「…………ぜ、全部済ましてない」
 黒縁眼鏡が笑う。満足気に笑う。
 「そうか。俺も未だだ。付き合ってくれ。俺もう、腹減った。お節用意したから食おう」
 綺麗とは言えない木造モルタルの、年季の入った畳の上の卓袱台に、長沢の用意したお節が乗っていた。
 写真でよく見る、漆塗りのお重は無い。半透明のタッパーに、それらしい物が並べられている。小鉢に入った白とオレンジの物は、なますとか言うものだろう。名前の書かれた箸と、そこに沿うように置かれたお猪口。ああ、そう言えば、こんな情景だったかも知れない。
 母がいて、甘い伊達巻が嫌いな冬馬に、しょっぱい卵焼きを作ってくれた。それがとても美味しかったのを憶えている。顔は覚えていないのに、舌に残ったあの味を覚えて居る。
 「啓輔……」
 「ん?」
 冬馬が持ったお猪口に、長沢が酒を注ぐ。酒は透明ではなくて、粘度の高い琥珀色をしていた。お屠蘇と言うんだよ、と長沢が言った。
 「あけまして、おめでとう。俺はお前が居て幸せだ」
 くすぐったそうに長沢が笑う。俺はどこにも行かないって言ってるじゃないか。そう笑う。
 二つのお猪口を互いに軽く当てて口をつける。初めての正月は、奇妙な甘い味がした。
 

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