□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 正月三日の北の丸公園は、晴れている所為で賑わっていたが、その殆どはカップルと家族連れだ。男の二人連れは、長沢と冬馬以外にはジョギングをして居る学生二人しかいない。確かに、男二人で無目的にうろついて楽しい場所かと聞かれれば、答えはNOだ。
 用済みの糸巻きをポケットに入れ、日本武道館の裏を通るコースで内堀通りに向かう。その途中で長沢が自販機に寄った。
 「何飲むー?」
 大した距離じゃないから歩いて帰ろうと言い出したのは冬馬なのだが、それきりすっかりだんまりである。この異星人は、どうも会話などが上手く行かないと、極端に不貞腐れて殻にこもる所が有る。こうなると非常に厄介だ。テコで押しても口を開かない。当然、長沢の問いに返されたのは沈黙の答えであった。
 自分だけ飲料を買うのも何なので、「温かいお茶」と言う、冬場にもっとも無難な物を選んで一つ渡す。
 「帰りに晩飯の食材買って行こう。家、何も無いからな」
 石壇についた手摺に軽く腰掛け、プルタブを引いて一口飲むと、横で青年も同じように一口飲む。いらないとは言わずにきちんと受け取り、長沢に習って飲む辺りは非常に素直だ。
 「……違うな……。啓輔の淹れた珈琲が飲みたい…」
 低いがはっきりした呟きに、長沢が驚いて青年を見つめる。
 そうされて初めて自らの呟きに気付いたのか、青年は首をすくめた。慌てて長沢を見てから、しまったとばかり目を背ける。数秒、間をおいてから改めて長沢を伺う動作は、完璧に親の顔色を伺う子供である。
 先程から、何を話しかけても一向に答えもしないわ、そっぽを向いたまま目も合わせないわ、全身で拗ねていた癖に、今の一瞬でそれを忘れてしまったようだ。長沢は可笑しくなった。
 「嬉しい事言ってくれるねぇ、冬馬、君。お前さんが買い物に付き合ってくれるなら、腕によりかけて美味い珈琲、淹れさせて頂きますよ。SOMETHING CAFEで」
 俯いたまま、長沢の顔を伺う。笑って居るのは、きっと冬馬の反応を面白がっているからだ。癪に障った。
 黒縁眼鏡と白毛混じりの髭、年相応な面相に、貧弱と言っても良い体つき。確かに見目麗しいとは言い難いし、若い男が惹かれる物かと問われれば違うだろう。若い男が興味を持つのは、普通は若い女で、それは冬馬とて例外ではない。今迄に幾度と無く若い女に惹かれ、魅せられ、抜け出せなくなった経験が有る。争奪戦も有ったし修羅場も有った。人並みの刃傷沙汰も経験した。だが今は。
 目の前のこの存在を、何よりも愛おしいと、大事だと感じてしまうのだから仕方ない。
 決まり悪く俯いたまま、頭を下げる。丁度最後の一口を口に含んで、缶を捨てようと立ち上がった長沢が、驚いて動きを止めた。
 「さっきは、すまなかった。俺は酷い事言った。それに、折角の凧、飛ばして……」
 口に入った分を無理矢理飲む。咽喉に引っかかり、若干もがいて視線を戻すと、灰色の目は足下を睨みつけたままだった。
 「ああ、いや、余計な事を言ったのは俺が先だ。それに、凧なんてまた作ればいいよ。大体あの達磨、両目描かれてたろ。祈願成就後の達磨だ。役目を終えて、空の旅って言うのは洒落てると思うね」
 確かに、凧の達磨には両目が有った。そこは不思議だと冬馬も思ったので、長沢の言葉に妙に納得する。視線の先の笑顔を確かめて立ち上がる。缶を煽ってゴミ箱に放り投げると、素直にそれはゴミ箱に収まった。
 「お見事」
 癪に、障る。
 こちらがどうして良いか分からなくて、仕方なく黙っている時に、余裕の笑みを向けられる。その度にこちらの小ささを、未熟さを思い知る。そしてその度に、愛おしいと思ってしまう。だから癪だ。癪に障る。
 「……っこ、れくらい、誰だって出来る」
 「そうか?俺確実に出来ない自信が有るぞ」
 「…啓輔くらいだろ」
 そうか、と笑う。いつも通りの長沢啓輔だ。
 年が変わって初めて会った今日、血だらけのシャツを気付きもせずに着ていた長沢に、冬馬は違和感を覚えた。
 弱みを晒す事を嫌がる長沢が、自らの動揺の証拠とも言える血塗れのシャツを、のほほんと着ていたのが信じられなかった。上着を着ていたから忘れていたと言うのは、確かに嘘ではないだろう。だが、いつもの長沢なら、住処に戻ったと同時に、自らの失態を処理する事から始める筈だ。シャツを捨て、それを捨てたゴミ箱も整理する。それが長沢のいつものやり方だ。だと言うのに。証拠の存在すらすっかり忘れていた彼に、冬馬は心底驚いたのだ。
 もし故意でなく、本当に忘れていたと言うのなら、それを忘れさせる程に重要な別の何かが無ければならない。そうでないと、不自然なのだ。
 では、それは何だ?
 長沢啓輔に、自らの失態の証拠を失念させる程の気がかりとは?一体、何だ?
 共に内堀通りを歩く。冷たい風に長沢が肩をすくめる。抱きしめて温めてやりたいと思うが、道中でそんな事をすれば、当人の怒りを買うのは必至だ。
 なぁ、冬馬。マフラーの中の口が言う。自然に歩調を緩めると、長沢の右手が冬馬の上着をかすった。
 「そのな。…俺、さっき驚いて突っ込めなかったんだけど、さ。その……お前、子供、いるの……?」
 言い辛そうな言い回しに、そんな事か、と思う。当然だ。それが極普通ではないか。
 ペルーの女性一人当たりの出産率は、近年はぐっと下がって2,9人。十年ほど前は3.5人、そのまた10年前は4.5人だったのだ。一番悪い数字をとっても、平均でざっと日本の倍以上。しかも、この数値はあくまで「平均」である。貧民街ではこの値は跳ね上がる。その数は、倍よりもっと大きいだろう。
 生物は、死が近ければ近いほど、増殖しようとする。人間も生物で有る以上、その点は全く同じだ。死と隣り合わせの貧民街では、四六時中子供の泣き声がした。多くは死ぬが、もっと多くが生まれる。
 冬馬達ゲリラもそうだ。作戦実行の前夜にパートナーの居ない人間は居なかった。何人とも交わるのが普通で、それを咎める者も居なかった。彼が居た長いとは言えぬ期間にも、何組ものカップルが未来のゲリラになる子供を産み落として行った。
 それが、冬馬の日常だったのだ。
 「……ああ。そりゃあ、何人かは居るだろう。俺が知ってるのは一人だけだが……」
 長沢が驚いて歩みを止める。冬馬は構わずに続けた。
 「俺が初めて"やった"相手は人妻だ。相手から誘われた。ダンナで物足りないから、教えてあげると言われたから教えて貰った。12歳だったと思う。初めてだったからハマって、暫く通った。楽しかった。でも暫くして、お腹の子供に悪いからと断られた。直ぐ別の女も出来たから、それっきり忘れてたが、暫くぶりに会った時、夫婦は子供連れだった。両親はブルネットだったが、子供の髪は黒だった。顔にも見覚えが有って、そうかと思った。俺は別に声もかけなかった」
 12歳。長沢は眼を丸くした。日本で言えば中学一年生である。自身の過去を思い返すに、まず、有り得ない。中学一年生の長沢と言えばまだほんの子供で、女体に興味はあったものの、「どうなってるのだろう」止まりだ。性交にまで考えは及ばなかった。ハマる、などとんでもない。
 「あ〜〜、その〜〜、ちなみに"例の三人"は子供……とかは」
 例の三人、とは、冬馬がかつて語った、長沢の前に強引に関係を持ったと言う女性の事だ。四人目が長沢で、それで打ち止めだと言った。
 「ああ、二人は俺の同志で、既に死んでいて、無い」
 「そうか」
 ほっとしてから、気付く。二人は、と言った。
 「三人目のイリスはミラ・フローレス(リマの富裕街)にいた学生で、一人暮らしをしていた。関係を持って、俺が転がり込んだ。半年ほど一緒に居たら、イリスの父親がガバメントを持って乗り込んで来たんで俺は逃げた。一週間もしないうちに部屋は空っぽになってて、連絡も取れなかった。後の事は全く知らない。生んだかどうかも、知らない」
 言葉の最後に眩暈がする。青年の中での重要度が、彼の物言いに滲み出していた。
 「それって、妊娠してたって事…だよ、な?」
 「半年間、やりまくってたんだ、普通はそうだ」
 「………」
 さらりと言われて息を呑む。やはり。長沢は思う。こいつはとんでもない鬼畜だ。4人をレイプした事を平然と話し、そこに罪悪感も持たず、物にしたなどと嘯く男だ。刹那的で、本能に従順で、残酷な異星人なのだ。
 最近は随分と知的で穏やかで、しかも長沢になついたりしていた物だから、レイプもその後の告白も、失念した訳ではないがぼやけていた。そうだ、すっかり忘れていた。目の前の青年が、鋭い牙も爪も備えた獰猛な獣だと言う事を。
 思わず睨みつけると、きょとんとした灰色の目が見返して来た。
 「12の時から、求められれば拒まない。ヤク中や病人は後が厄介だからパスだが、それ以外なら断る必要は無い。女とのSEXは勿論、男ともした。別に拘らない。どっちにしてもSEXは楽しいし、俺は好きだ。避妊してと言われれば、した。それで充分だろう。俺からわざわざ避妊はしない。素のままの方が気持ち良い」
 「それで……子供が出来たら?」
 「俺は知らない。生まなければ良い。それだけの事だ。俺は欲しいと思わない」
 正直と言えば正直だ。だが褒められた答ではなかった。つい先程、子供を持つ事がどれ程素晴らしいかを説こうとした身としては、正面から否定されて何と答えるべきか逡巡する。と、青年が長沢を頭の天辺から足の爪先まで、ゆっくりと見下ろした。
 「いや。思わなかった、……かな。お前が女だったら、どんな子が出来るのか見て見たい。男にしても女にしても、きっと頭のいい可愛い子が生まれるだろう。……が、それはあり得ないから子供は要らない」
 ぞっとした。理屈ではない。悪寒がした。
 「ああ、悪い冬馬。正月はたった今終わった。じゃ、な」
 冬馬は驚いて足を止めた。自分の横に居た細い身体が、大股で彼を追い抜く。あっと言う間に後ろ姿になる。訳が分らなかった。
 「啓輔?」
 「じゃあ、な」
 追い縋ると繰り返される。困惑した。
 「啓輔。啓輔!今日のお前はおかしいぞ。妙に機嫌が良かったり、はしゃいだり、変な言いがかりをつけたり、いきなり怒ったり。一体どうしたんだ」
 頭の直ぐ後ろから、ハスキーな叫び声が振り降りて来る。冗談ではない。
 青年の理屈では凡ての落ち度はこちらに有る事になるではないか。そんな理屈が有って堪るか。
 機嫌が良かったのは、青年をもてなしてやろうとしての事だ。久々のおもちゃに夢中になったのは、遊んでくれと子供にせがまれた気がして、少しばかり嬉しかったからだ。我侭な子供をあやして、機嫌も直してやったではないか。そして今は。――今は?
 「俺がこう言う奴だと言うのは、お前は身体で知ってる筈じゃないか。俺はお前に会うまで、これで良いと思ってた。誰も悪いと言わなかったし、不都合はなかった。
 初めて俺に、それは間違ってると言ったのはお前だ。だから俺は考えたし、反省だって、俺なりにしたし、変ったと思う。もう、同じ事はしない。でも、昔の事は変えられない。今更、変らぬ事を責められても、俺にはどうしようもない。啓輔!」
 立ち止まる。冬馬が言う事は至極尤もだ。
 唐突に立ち止まった身体にぶつからぬように、冬馬が前に回る。自分が不貞腐れると目も合わせぬ癖に、こうした時は無遠慮に覗き込んで来るのが、子供の憎らしい所だ。真っ直ぐに合わされる灰色の瞳を見て深呼吸をする。
 「――― 確かに」
 その通りだ。冬馬が良くも悪くも規格外なのは、長沢自身が身をもって知っている。嫌と言うほど、思い知らされた。
 世間一般で言う善人では決して無いどころか、ほぼ獣で、鬼畜と言うのが相応しい青年なのだ。純粋無垢な鬼畜。性質が悪い。
 再確認して、納得する。同時に、自らの思考に疑念が沸いた。では、この規格外の青年に、世間一般で言う所の幸せが当て嵌まるのか。また、その正誤の判断は長沢に可能なのか。良く分らなくなった。所詮長沢は、一般的な幸せからはみ出してしまっただけの凡人だ。冬馬と言う異星人の幸せなど測れる訳も無い。
 「怒ってるか、啓輔?」
 覗きこむ灰色の瞳は、気遣わしげで不安げだ。人間的で、初めて会った頃とは、本人の言う通り違うのだろう。長沢が現在親しんで居る、知的で情熱的な青年の物だ。だがこの瞳の先、その頭脳の中に有る価値観も理想も長沢とは恐らく異質の物で、完全に理解する事など到底叶わぬ物なのだ。 
 頭を振る。歩を進める。冬馬も自然に歩み始める。コンパスの差の所為で、長沢が冬馬の少し後に続く形になった
 「いや。……そうだな。お前の言う通りだ。お前があんまり突飛な事を言うから付き合いきれんと思ったが、確かにお前はそう言う奴だよ。今に始まった事じゃないや。……それに……。」
 共にマフラーに首を埋めるようにして、歩く。両手をポケットに突っ込み、少し後ろを伺いながら歩く冬馬と、糸巻きの所為で左手しかポケットに入れられない長沢が同じリズムで歩く。互いにマフラーの上に出来る小さな白い雲を掻き分けて進む。冬の早い夕暮れはそこまで来ていた。
 「俺の価値観…、お前の言う通り、融通効かんかもな。古い…と言うか古臭いよな。
 殊、幸せとか、心とか、恋愛、家族に関してはガチガチだ。仕事の成功とか、夢の実現とか、そりゃ人によって色々幸せの形は有ると思うけど、プライベートでは男女がちゃんと家庭を作って、家庭と家族を守り合って行くのが、一番幸せだと俺は思ってるよ。
 俺の思う幸福は…そうだなあ。お前にとっては幸福ではないのかも知れない。でもなぁ、これ、俺の意識の中央なんだよ。今更そんなに変らないんだ、こう言う意識」
 だから。
 「お前は俺には勿体無……」
 ぎゅう。ポケットの中に突っ込まれていた熱い左手が、糸巻きに場所を占領されて出しっぱなしの、長沢の右手を握る。
 反射的に手を引こうとする動作を許さず、強く握り締める。思わず言葉を詰めて青年を見上げる長沢から、冬馬は顔を反らしたまま歩き続けた。
 その通りだ。冬馬は思う。
 俺の幸せは世間一般の物とは違う。男女の平凡な家庭も、子供も要らない。俺の幸せに必要なのはお前だけだ。意識など変えずとも良い。ただ、受け入れてくれれば良い、それだけで良いんだ。そう念じて手を握る。言葉で通じず、態度に出して信じて貰えないのであれば、後は念じるしか無いではないか。
 長沢は「祈願成就」のお守りをくれた。冬馬の願いが叶う事が俺の祈願だと言った。それならどうか分ってくれ。念じる。思いの限り。
 周囲を気にする長沢が、唐突に握りこまれた掌の中でもがく。冬の日暮れは早いとは言え、辺りはまだ充分明るい。陽光の下で、大の男同志が仲良くお手々繋いでお散歩など、日本では確実に見られない。子供や、精々学生ならまだ分る。親子ならば、まだ分る。
 いや。例えば親子だとしても、子供が成人した後で手を引くのは特殊な場合だ。具合が悪かったり、目が見えなかったり、逃亡防止の為だったり。そうでない限り普通は無い。有り得ない。不自然だ。不恰好だ。異様だ。長沢としては非常に決まりが悪い。
 遠慮がちでは有るものの、確かな抵抗が続けられる。冬馬を気遣って、放せとストレートに言えぬ癖に、諦めも出来ずにジタバタするのが長沢らしい。何度も、縋るように見上げる視線を背中に感じるが、敢えて無視する。抵抗が徐々に強くなって行くにつれて、冬馬は可笑しくなって来た。
 どうせ、真っ赤な顔をして周りを伺い、目立たないようにそっと掌を剥がそうとしているのだ。当人にとっては充分隠密行動のつもりなのだろうが、はっきり挙動不審だ。却って目を引く。奇異な目線を向けられる。それは俺の所為じゃない、お前の所為だぞ、啓輔。ささくれ立った心が穏やかになって行く。
 「暫く、会えない」
 「…えっ…?」
 今正に、放してくれないか、と言おうとしたタイミングで、青年の呟きに先手を打たれた。
 開け掛けた口を閉じる。ああ、そうか、と思った。
 「"話"で。……これ以上は言えない」
 そっぽを向いたままの青年の口許から、白い湯気が立ち上る。若い、張りの有る頬を包んでは消えて行く。そうだったのか。
 青年は今日、最初から、幾度と無く何かを言い淀んでいた。会話の行き違いで先程あれだけ不貞腐れた理由も、恐らくはこれだったのだ。
 "話"に着手する事まではギリギリ話せても、それがいつから、どこで始まり、標的が誰で、目的は何なのか。それは一切長沢には伝えられぬ事だ。秋津の正員である冬馬と、バックアップの長沢では立ち入れるレベルが全く違う。冬馬が知る凡てを、長沢に伝える事は許されないのだ。心苦しかった事だろう。
 「……そうか」
 「うん」
 「なるほど。今回のは時間がかかる訳だ。…ま、そうだよな。一日で済む物ばかりな訳、無いもんな。どれくらい、かかりそうなんだ?」
 頭を振る。その明確な意味は知れなかった。分からない、知らない。説明は出来ない。その内のどれかだろう。
 一年か、二年か。或いはもっとか。存外一年足らずであっさりと終わってしまうものかも知れぬ。だがそれは、潜り込んで見ないと、皆目見当すらつかない。長沢が頷いた。
 「分る訳ないか。その間、連絡は取れないのか?」
 「無理だ。命取りになる」
 「そうか」
 「ただ、お前は秋津にとっては危険因子だから、俺がいない間、放置しておくとは思えない。秋津から何らかのコンタクトが有ると考える方が自然だ。監視か、直接の、接触か。害は加えさせないが、俺には何も出来ない。俺はただ、…消える」
 そうか、と答える語尾が消えかかる。冬馬は背後を伺った。手を取られて、仕方なく付いてくる様相の長沢の表情が、少しでも沈んでいてくれれば良い。この胸の思いが、少しでも伝われば良い。俯いたままの黒縁眼鏡には地面だけが映っていた。
 「……気をつけてな、冬馬。帰って来たら、うんと美味い珈琲、淹れてやるから」
 手を握る。離れたくない、と言う代わりに手を握る。周囲を気にする長沢が、握り返してくれた事が嬉しかった。
 

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