□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 定時にSOMETHING CAFEを閉めて、店を出る。
 正月4日の街の底に佇む。屠蘇気分が抜けていないネオンとポスターと、行きかう人々の言葉。街の装いも、松が取れたようで取れていない。周りを見渡して深呼吸をする。白い雲が視界を塞いだ。
 酒井医師には秋元と渡りを着けた事も、楢岡に事情を話した事も伝えた。それを受けて、酒井医師が秋元と早速連絡を取った事、楢岡から連絡が来た事の報告を受け、とりあえず胸を撫で下ろした。
 打てるだけの手は打ったのだ。
 後は殉徒総会、秋元の(株)バッカー、公安警察のいずれかからの報告が上って来るか、酒井 美也本人が帰宅するかを待つしか有るまい。この件に関しては、今の時点、長沢は用済みなのだ。街の中を歩き出す。
 珈琲入りのポット、袋詰めのフレンチフライを入れたトートバッグを片手に下げて、通りを歩く。都営新宿線に数分乗れば新宿で、冬馬の住むビレッジパークビルは直ぐ目と鼻の先だ。気持ちは沈んでいた。
 冬馬からは一切の返答が無かった。電話もメールも。留守電は入れたが、それが聞かれたかどうかも分からない。"話"に掛かる前には一報くれる事になっているから、恐らくは前準備で忙しいのだろう。長期になると言うなら尚更、色々と手続きも有るのだろう。忙しい時に雑事で煩わせたくはない。煩わせたくは無いのだが。
 このままでは、どうにも気になってじっとしていられない。
 一言、余計な事を言った、すまなかった、そう言いたいのだ。俺はここにいる。お前の帰ってくる場所はいつだって有るのだと、そう伝えられればそれで良い。それだけ、冬馬が聞いてくれれば充分だ。それで満足なのだ。それに偽りは無い。
 だが、迷いは有った。胸の中はまだ散らかったままだった。
 冬馬が求める「居場所」と、長沢が提供しようとしている「居場所」は違う。
 頑迷な長沢にも、流石にそれは分っていた。身に沁みて分った。同じものだと思い込もうとする努力は、もはや不毛だ。長沢が冬馬に抱く情と、冬馬が長沢に対して抱く情は完全に異質だ。驚くべき事に、冬馬は本気なのだ。一時の感情が、いつまで保つのかは分からない。だが少なくとも今、冬馬は本気でこの中年男を自分の生涯のパートナーにしたいと願っているのだ。
 都営新宿線の、銀色のボディがホームに入って来る。何度見ても、地下に潜った山手線にしか見えない。
 ほんの数分だからと、座らずに戸口に立つ。地下鉄の、闇をバックに鏡になった窓を睨みつける。手摺に寄りかかってこちらを見ている、しょぼくれた男が目の前にいた。
 落ち窪んだ目と張りの無い肌、覇気の無い表情と白毛がちらつくぱさぱさの髪。くたびれた、貧相な体躯の中年男。どう見ても負け犬と言うに相応しい男がそこに居た。腹立たしく睨みつけてから目を反らす。何故、こんな老いぼれを。冬馬は良いと言うのだろう。
 自分の年は知っている。よく分かっている。
 47と言う年は中途半端で、政界では若手と言われるが、一般社会では親父だの爺だのと言われる年齢だ。冬馬から見れば、ほぼ父親の年である。親子になら相応しくても、恋人と言うにはそぐわぬ年なのだ。勿論。
 これは偏狭な価値観に基づいての判断だ。青年がもっと自由で、奔放な価値観を持っている事は良く分かっている。だが。想いはループする。こんな俺のどこが、あの青年に相応しいと言うのだろう。
 ビレッジパークビルに着いて、エレベータに入り込む。ビルの中の森も、シースルーの作りも、やたら早いエレベータも、人間はあっと言う間に慣れてしまう。最初は面食らった凡ての情景が、今は当たり前のように見えた。
 部屋の前まで着いてからチャイムを押す。居ない事は予測されていた。
 "話"に入って居るのだから、東奔西走、精々がこの場所は帰って寝る為だけの場所になって居るに違いない。帰るのは真夜中過ぎだろう。今の時間には、まず居っこない。返答の無いチャイムは三回で諦めて鍵を差し入れる。違和感が有った。
 鍵穴は、取っ手の上下二箇所に付いており、その両方がきっちりと施錠されている。前回、冬馬が開けてくれた時は、確か施錠されていたのは下の一つだけだった。違和感を持て余しながら、貰ったマグネットキイで上下を開ける。扉の中に滑り込むと、冷え切った空気が迎え入れた。
 「こんばんわ」
 人の気配は全く感じられないが、取り敢えず口に出してみる。一度目は小さく。二度目は奥に向けてやや大きく。当然ながら返答は無い。
 壁を探って玄関の燈りを点ける。人気の無い住居ほど、殺風景なものも無い。そのまま燈りを消さずに長い廊下を抜けてリビングに入る。違和感が跳ね上がった。
 室内は真っ暗闇だった。光源は遠い玄関の燈りだけで、広いリビングには光源が無かったのだ。心臓がばくん、と大きく波打った。
 前回。冬馬に招じ入れられた玄関から、長沢は一気にこのリビングまで走りこんだ。その時、突き当たりのリビングは明るかったのだ。長沢の後から着いて来た冬馬が蛍光燈のスイッチを入れる前に、リビングには幾つもの光があったのだ。
 眼下に広がるネオンが。道路を描き出す街路燈の列が。人々の暮らす部屋の燈りが。レースのカーテンの向うに点っていたからだ。
 今はそれは無い。凡ての窓は施錠され、カーテンがきっちり二重に引かれている。ブラインドも全て閉じられ、月の光すら入らない。全てを閉め切った漆黒の空間だ。違和感は今や確信となった。
 電気も空調も元から切られていた。セントラルヒーティングの表示窓は真っ暗で、電化製品の類の殆どはコンセントから抜かれていた。広いリビングで唸りをあげるのは、冷蔵庫唯一つ。それだけだ。
 締め切った空間と言うのはこんなにも音が響くものかと初めて思う。外界と遮断されたこの部屋に息衝くのは、冷蔵庫のモーター音だけだ。他には何も感じられない。
 うろたえて周りを見回す。何かを探しているのではない、ただ、見回す。と、親子式のFAXで目が留まった。
 何かが引っかかって近寄る。思い入れのある品物など有る筈の無い青年の家で、FAX台に近寄り、玄関の燈りが手許で煌いてやっと分った。
 見慣れた冬馬の携帯電話が、FAX台の脇に置かれていた。
 つい昨日、買ったばかりの金色の熊のお守りが、ちょこんと携帯電話についている。玄関の灯りを反射したのは、クマが背負った祈願成就の金文字だった。
 手に取り、身を固める。自分で自分に語りかける。おいお前、きちんと考えを纏めろ。手の中の物を握る。纏めるほどの疑問でもない。
 昨夜から幾度と無く繋いだ電話は、誰も居ないここに届いていたのだ。長沢の訴えは、青年の許に届いてなどいなかった。昨日からずっと。そしてこれからも。……道理で。反応も返答も無い筈だ。
 持って来た手荷物をその場に置いて、フローリングを蹴る。殺風景な住居のあちこちの電気をつけ、凡てを覗き込んで回る。人影は何処にも無かった。覗いて回る。腹立たしくなって来た。
 行く前に、一言かけてくれと言った。青年は頷いた。頷いた癖に。
 この部屋の住人は帰らない。恐らくは数日前にここから姿を消し、いつまでか分からぬが帰って来ない。
 暫く、会えない。青年はそう言った。連絡は取れない。命取りになる。そうも言った。自分は答えたのだ。そうか、気をつけてな。
 壁伝いに蹲る。そうか、と思う。
 暫く会えないと青年が言う場合、これっきりと言う事なのだ。長沢はそれに気付かなかった。知らなかった。これほど唐突とは。知っていたら。
 もっとにこやかに送り出せたのに。苦い後悔が拡がる。
 今は聞きたくないと青年は言った。そう言う事だったのかとしみじみ思う。青年と自分の感覚はこんな所まで違う。言うべき事の優先順位も、思い込みの強さも思い切りの良さも。何もかも、まるで違う。
 今頃、青年は"話"に没頭しているだろう。様々な雑念に蓋をして、専念出来ている事だろう。それが出来るのが青年の強さで、様々な事を考えてしまうのが長沢の弱さだ。
 凡てのしがらみを払い除けて、自分の思いを100%表す事など、長沢には思いもつかぬ。その癖、自分の思いに蓋をして、他者の意思通り動く事も出来ぬ。しがらみからも自分からも、自由になる事など出来ないのが長沢だ。だが、青年は違う。
 周囲を気にせず、自らの思いをぶちまける事も、それら凡ての想いを仕舞い込んで革命の為に凡てを捨てる事も出来る。彼にとってはしがらみなど価値は無く、自分はその時その時の物なのだ。それぞれの時、100%出せれば、次の瞬間に消えても悔いは無い。それが冬馬だ。
 ……全く。
 暗闇の中に蹲る。空も垣間見せない四角い籠の中で脚を放りだす。靴下の下のフローリングは酷く冷たい。不意に吐いた溜め息が、部屋の底に白く拡がる。全く。……全く。
 「お前が羨ましいよ、冬馬。お前は一人で何処にだっていける。何処までだって行ける。なのに俺と来たら……」
 寒さを感じて膝を抱く。持って来たトートバックを引き寄せる。ポットの中にはホット珈琲が入っている。冬馬が気に入ったと言ったケニアAAのネルドリップ。それをキャップに注いで、一口啜る。
 月の明かりも入らぬ冷えた部屋で飲む珈琲は、酷く苦い気がした。
 
 
 帰る気力もなくしたのか、床暖房だけ入れてリビングの床に寝転がる姿を、別室の扉の影から見守る。
 暗闇の中では動き回る視力のない男は、リビングの常夜燈をひとつだけ点けたままにして、そこに敷かれたラグの下に潜り込んだ。オレンジがかった燈りの下で、ソファセットのクッションを顎の下に抱え込む。横向きにラグに潜り込んで眠る様は、ともすれば高級住宅に入り込んだホームレスのようだ。ちゃちで、弱々しい、惨めな存在だ。
 穏やかな寝息が、規則正しく聞こえるようになってから、ゆっくりと近付く。既に深い眠りに入った身体は、気配などには全く反応しない。側にしゃがみ込んでその顔を間近に覗き込んだ。
 ―― …全く。
 苦笑が漏れた。
 あさぎりの趣味にも呆れたものだ。この負け犬を、かけがえの無い相棒でブレインだなどとはよく言った。
 目の前に転がる人間は、男女の別には拘らぬとしても、美形でもなく若くも無く、突出した才能や輝きが有るでもない、平凡で貧相な日本人だ。鋭さも知性の香りも感じさせない、ちっぽけで凡庸な人間だ。全身を見回して溜め息が出た。余りにも凡庸。余りにも粗末。そこらに幾らでも転がっている、一山幾らの粗悪品だ。
 全く。とんだ食わせ物だ。
 茶番である。こんなモノに同志が煩わされるなど、実に忌々しい。いっそこの手で幕を下ろしてやろうか。死んだと言えば諦めもつくだろう。簡単な事だ。
 手袋に包まれた手を伸ばす。そのまま手を掛けようとして、首の3cm前で動きを固める。微動だにしなかった身体が、不意に両目を開けたからだ。
 オレンジ色の薄闇に馴染んだ目の前でゆっくりと開かれたのは、黒目勝ちの大きな瞳だった。
 やや垂れた双眸が潤んで見えるのは、恐らくは近視だからだ。大きく開いた瞳孔も、視力の悪さを物語っている。真っ直ぐこちらを見つめて居るのは、何も感知していないからだ。落ち窪んだ眼窩の中の、黒い瞳。何も見えてなど、居ないのだ。
 手を伸ばす。この頼りない首を、少し力を入れて外してやれば全て終わる。余計な仕事も回されない。厄介事も無くなるのだ。手を伸ばす。
 唇が動いた。
 「冬馬。――冬馬? 帰って来たのか?」
 呂律の回らない口調で呟いて、ぐるりと部屋を見回し、そのまま目を閉じる。
 冬馬。
 近寄る。既に目を閉じている穏やかな輪郭を、そっと手で辿る。その体温を感じたのか。冬馬。そう呟いた口許が、微かに笑んだ。
 手を離す。小さく震えた身体は、肩口のラグを掴んで、その中に潜り込む。ゆっくりと規則正しい寝息に戻って行く姿に、彼は小さく吹き出した。
 美醜でも凡庸。身体的能力も、社会的地位も、経済力も何もかも平均以下。少なくとも。
 秋津の誰と比べてもはるかに見劣りする存在だ。こんなモノに惹かれる青年の気が知れぬ。知れぬ、が。
 面白い。
 寝顔を見下ろして、笑いに顔を歪める。音も無く立ち上がり、踵を返す。部屋を後にする迄の数秒、部屋の空気が波立つ事も無かった。
 月の光が支配する外界に滑り出て、男は改めて笑った。
 面白い。秋津の脅威となりえる唯一の一般人。あさぎりの望む者。咽喉がくつくつと声を上げた。
 あれは弱者を語る知恵者なのか、弱者を語る弱者なのか、たっぷり見極めさせて貰おう。あさぎり、安心するが良い。暫くは交代だ。俺の役目と、お前の役目は。
 あれは ―― 任せておけ。
 

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