ESCAPE -1-

 何時か会いたいと思っていた。
 あの日、彼が姿を消して以来、何時かまた会いたいと思っていたのだ。
 彼の事を忘れたことは無い。いつも頭の隅に引っ掛かっていた。
 何故かは判らない。会ってどうするつもりなのかも判らない。
 不透明な感情が、時々表面に表れて苛立ちが抑えられなくなる。
 だから、会いたかった。
 もう一度話したかった。

 歩きながら溜息を吐いた。息が白い。
 クリスマス間近の日。少し前を歩いている見慣れた黒い服―――二人の間に会話は無かった。
 尖の死をずっと引きずっている穂邑に、李は何も語ろうとはしない。穂邑も仲間を殺して平気な顔をしている李に対して、怒りが収まっていないのだ。穂邑の中の尖の死と、李の中のそれは決して相容れることは無く、常に共に行動する二人の間の狭間を近づける要素も未だ見つからないままだ。
 李は何も変わらない。少なくともそう見えた。以前と同様に冷たく冴えている。一人の白紙扇が居なくなった事など、彼の全てに何の影響も及ぼさない様子だった。そんな李の体温を傍らに感じながら、穂邑は妙に苛ついている自分をどう抑えたら良いのか判らないまま時間だけが過ぎてゆく。
 今も彼の胸ポケットには、あのサングラスが入っている。
 女々しい感情だと言われても一向に構わない。彼の事を考える度に鼻の奥がつんと痛くなる。最早その感情を抑えようとは思わなかった。他人にどう思われようが、もう見る事の出来ない彼に対して何も隠すものは無いのだ。
 左手でそっと胸に触れてみる。あの日以来の癖。触らずとも指先が憶えている感触。李の後ろを歩きながら、確かめる様にポケットの上から輪郭をなぞる。ふいに、目の前に壁が現れた。あっと思った瞬間、右腕に鈍痛が走り慌てて俯き加減だった顔を上げる。
 背に当たった穂邑に構うこと無く李は話し始めた。穂邑の位置からは相手の顔までは見えない。低い声。所々しか聞き取れない言葉……福建語だった。
 李は片手を軽く挙げると、穂邑に目を向けた。
 「急用だ。ちょっと待っててくれ。すぐに戻る。」
 穂邑の返事を聞かずに二人はすぐ横の路地へと足を向けた。
 自分には聞かれたくない内容だったのだろう。尖の死と引き替えに裏切りでないことが証明された今も、彼は『李朝民の傍に居る日本人』のままなのだ。それが悲しい事だとは思わない。元々双龍頭に入りたかった訳では無いし、認めて貰いたいとも思っていない。別の目的があるからこそ、ここまで辿り着けたのだ。
 何時まで続くんだろう。思わず溜息を漏らした自分がショーウィンドウに映って、苦笑した。何を弱気になっているんだ。
 最後に聞いたあの電話の声は今でも耳に残っている。激痛に気が遠くなりながら聞いたあの声。死ぬかも知れないと思いながら聞いたあの声。あの人は多忙な中で僕の事を思い出す事があるだろうか。 いや、最初から僕の生死など気にしていないだろう。それで良い。あの人は王様だから。一人のちっぽけな家来の生死なんて気に掛けなくて良いのだ。
 尖のこと。李のこと。そして、沙門のこと。頭の中を様々な光景が浮かんでは消える。ショーウィンドウにもたれ掛かって見上げた冬の空は、微かに濁って見えて……自分が泣いていることに気が付いた。
 何故、涙が出るのだ。誰が悪いのでも無い。誰のせいでも無い。全ては自分で決めて行動した結果だった。何度も何度も繰り返し考えたことだ。他に何か方法があったのではないかと悔やみつつ、どうしようもなかった事だ。
 理性では解っているのに、感情的な部分でどうしても解りたくないことが多すぎるのだった。これからやらなければならない事が山の様にあるのに。考えなくてはならない事は更に多い。
 慌てて涙を拭い、軽く頭を振った。気持ちを切り替える為に敢えて声に出して言ってみる。
 「遅いな……チャオ……」
 これからの事を頭の中で反芻する。思えば廈門飯店の外でひとりになるのは久しぶりだ。ひとりきりの、この僅かな時間が有難かった。
 疲れている、と思う。様々な事がありすぎて事実疲労が溜まっていた。肉体的にも、精神的にも。
 どのくらい時間が過ぎたのか。伏せ眼がちの視界に映るアスファルトに、ふと影が出来た。李が戻って来たのだ。思考を中断させ、顔をあげる。
 「あ、お帰りなさ……」
 驚愕に言葉が凍り付いた。
 目の前に立っていたのは、双龍頭の香首では無かった。
 「穂邑?……穂邑、だよな……?」
 顔を覗き込む様にしながら話しかけてくる。どう答えようかと一瞬躊躇している間に、ダウンジャケットの上の顔が嬉しそうに笑う。
 「久しぶりだな。何年ぶりだろうな。覚えてるか?」
 忘れていた。今、顔を見るまで全く忘れていたのだ。穂邑にとって、彼はどうでも良い存在だ。決して好意など抱いていない。出来れば会いたく無かったのが本音だ。彼が何故そんなに嬉しそうに話しかけてくるのか不思議でならなかったが、今更知らんぷりを決め込む訳にもいかないだろう。諦めと共に溜息を吐き出し、ようやく口を開いた。
 「覚えているよ。志田ちゃん。」

 微笑んで言った。そのつもりだった。適当に話をして逃げてしまえば良い。どうせすぐに李が戻って来るのだ。
 「何でそんなに変な顔してんだよ? 俺に会ったのが、そんなに嫌か。」
 「そんなことは無いよ。久しぶりだよね。変わらないなぁ、志田ちゃんは。」
 通りすがりに話し掛けただけなら、早く行ってくれ。そう思いつつ表情には出さずに返事をしたのだが、そんな穂邑の意図に反して志田は隣に並んでショーウィンドウに寄り掛かる。
 「実はさ、ちょっと前からお前に気が付いてたんだよ。だけどなかなか声掛けらんなくてさ。多分穂邑は俺のこと嫌ってるだろうしな……。だけどよ。俺、ずっと会いたいと思ってたんだよ、お前が急に学校に来なくなってからな。あ、別に変な意味に取らないでくれよ。俺今ちゃんと彼女いるんだぜ。真っ当って訳じゃねぇけど一応仕事もしてるしよぉ。まあ、ちょっとはヤバイ事もやってたりしたけどな。ところでお前今、何やってんだ? どうしたんだよ、その腕はよ―――?」
 沈黙したままの穂邑に構うこと無く喋り続ける志田を、意外そうな眼で見上げた。こんなに良く話す志田を見るのは初めてだ。昔も何かと絡んでくることは多かったが、こんなに親しげに話し掛けられたことは無い。何が目的で話し掛けて来たのか。志田の真意を探る様に見つめる。
 志田の言う「学校に来なくなって」は、父親を連想させた。聞きたくも話したくも無い。だが、彼女や仕事の話しをする彼の言葉は意外なほど耳に心地良かった。訊きもしない事を立て続けに捲し立ててくる。もう少し話を聞いていても良いと、ぼんやり考えながら驚いていた。こんなどうでも良い話なのに。否、どうでも良い話だから、もう少し聞きたいと思ったのかも知れない。
 穂邑は本当の事を話す訳にはいかない。訊かれた事だけを適当に誤魔化しながら言葉を選んで返す。そんな彼を志田はどう思ったのか。彼は話し続ける。
 穂邑がいなくなってからの学校と友人達の噂。卒業してからのこと。家族のこと。彼女のこと。そして、仕事のこと。
 誰かに似ている。ふと、そう思った。少し人を馬鹿にしたような喋り方。すぐに大声で笑うところ。都合が悪くなると口籠もるところ――――亮だ。この言い方、仕草。彼を思い出させるのだ。真っ直ぐで表情を隠せない彼を。無鉄砲な彼を。「ダチ」と呼んでくれた彼を思いだして、つい含み笑いを漏らす。
 「何だよ、気持ち悪ぃな。何思い出し笑いしてんだよー?」
 「いやぁ、志田ってこんなに面白い奴だったかなって。」
 「何だよ、それ。穂邑は相変わらず女みてぇな顔してんなぁ。もてるだろー?」
 「あはははは。想像に任せるよ。」
 「やな奴ぅ。顔だけじゃねぇ、性格も相変わらず嫌味だなー。」
 今の二人の関係は、只の『志田』と『穂邑』だった。こんなに笑ったのは久しぶりだ。時間にすれば僅か数分のことだったに違いない。それでも、双龍頭とも鹿野組とも関係の無い、何よりも死の匂いの感じられない会話は新鮮だった。
 大声で笑っていた志田が、急に黙り込んだ。厳しい顔つきで目の前を行き交う通行人を見ている。つられて、穂邑も正面に目を凝らす。
 やべぇ。小さな呟きが聞こえたと同時に、左手を掴まれた。
 「な、何………?」
 「悪い。ちょっと一緒に来てくれ。」
 志田に引摺られる様に走りながら、穂邑が無意識に探したのは、間も無く戻るであろう李朝民の姿だった。

 「…………キッド?」
 誰かに呼ばれた気がした。
 腕時計を見て、思いの外時間が経っている事に気付き、李朝民は足早に道を戻って行く。次の路地を曲がれば穂邑が待っている筈だった。予定外の時間の経過に苛立ちつつ角を曲がる。が、そこに居る筈の青年の姿は無かった。
 逃げる筈は無い。そんな必要は無い。彼の居場所は自分の元にしか無い筈だ。
 車で待つ伯芳に連絡を取ってみるが、車にも青年は戻ってないらしい。慌てて辺りに目を走らせる。それらしい姿は見当たらない。
 李朝民の穂邑に対する評価は高い。彼が単なる抱き人形で無いことは承知していた。組織の一員としてでは無く、彼個人の能力を評価していた。彼は甘すぎる。双龍頭には向いていない。だが、それで良い。李が欲しているのは、『双龍頭の穂邑』では無く、『李朝民の穂邑』だったのだ。
 その彼が何も言わず、何も残さずに彼の前から消えることは……何かトラブルに巻き込まれたとしか考えようが無い。
 焦燥が表情に顕れる。人頭が見ているいつもの香首には有り得ないことだった。
 穂邑は自分の身を守る物を何一つ所持していない。たとえ持っていたとしても。彼は自分の身を守る為にそれを使うことは有り得ないという事を李は承知していた。他人を守る為に己が傷つく事はあっても、その逆は無いだろう。彼ほど自分の命に執着しない人間を李は見たことが無かったのである。理解こそ出来ないが、彼の行動を想像することは容易だった。
 早く見つけなければ。彼が、他人の死よりも、自分の死を選んでしまう前に。
 「死ぬなよ……キッド。」

 「…………チャオ?」
 誰かに呼ばれた気がした。
 走りながら後ろを振り向いた彼の瞳に飛び込んで来たのは、数人の人影。遠くて顔は判別出来ないが、5、6人いるようだ。彼らの手に、日没間近の冬の陽光がキラリと反射した。
 「早くっ!」
 志田に急かされて、手を強く引かれた。
 何故逃げているのか、状況が判らぬまま走り続ける。何処をどう走ったのか、いつの間にか辺りに人通りが少なくなっていた。通行人を巻き込まない為にわざと表通りから外れたのか。それとも目的地があるのか。走りながらでは志田に訊く事は出来ない。自分より数倍も体力のありそうな志田に引っ張られているのだ。転ばずに付いて行くのが精一杯だった。
 肺が酸素を求めて喘ぎ始める。
 志田は細い路地に入り、ビルの裏口らしきドアの中へと滑り込んだ。引っ張られる様に穂邑も転げ込むと、右腕を庇いながら座り込んだ。限界だった。立っていることが出来なかった。肩で息をする。
 赤茶色に変色したドアを細めに開けて、暫く外を覗いていた志田も、ほっとした様子でドアを閉めて腰を下ろした。
 「多分、もう大丈夫だろ。……悪かったな。怪我してるのに無理させて。」
 荒い呼吸と共に、志田が言葉を吐き出す。
 何が大丈夫なのか。それを志田に訊くべきか。それともこのまま別れて李の待つ場所へ戻るか。昔の自分なら、迷わずこの場を去っただろう。志田のことに興味なんて無かった。志田に限らず、全ての他人に、自分のことにすら興味が無かったあの頃。守りたいと思っていたのは、霧香唯一人だ。
 「昔っから、何も訊かねぇし、余計な事は何一つ言わねぇ奴だったよな。今でもそうなのか?」
 黙ったままの穂邑に、志田の責める様な口調。直後、がっくりと頭を落とした。
 「すまねぇ。自分勝手だよな、俺。でもよぉ―――」
 そして、彼は、話し始めた。

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