◆刺客◆
 
                    水無月しづむ


 
 標的は、手を伸ばせば届く距離にいた。

 ペルシャ織りのタペストリを背景に、堂々たる体躯を籐のカウチにもたせ、鈍く光る玉杯を傾けている。薄い唇を微笑に歪め、秀でたひたいの下の瞳がこちらを映しているが、灰色の球体に感情は読み取れない。

 標的の名は李朝民。双龍頭の香主と呼ばれる男だ。

 銅鑼が鳴った。物悲しい弦の音色が、狂おしい爪弾きに変わる。猛々しく馬を駆る、騎馬の民の戦の曲だ。

 彼女は腰から宝刀を引き抜き、床を蹴る。

 薄物の領衣をなびかせて跳躍し、もう一振りの切っ先に打ち合わせる。薄い白刃が震えて光を放ち、柄に結んだ玉飾りが涼しい音を奏でる。玉鳴りが止まぬよう、舞の速度を上げる。

 標的が息を飲んだ。

 刃先に特別の薬を塗ってございますので、あのように暗闇に輝くのでございます、と座長が耳打ちするのが、聞こえているのかいないのか。李朝民はすっかり舞に見惚れている様子だ。

 刃先をぎらぎらしく光らせる塗料の、真の効能も知らずに。

 死に行く者への憐れみと嘲笑を込めて、肩越しに視線を送る。獲物の最期を見透かす舞姫の瞳は、命あるどの男に注ぐよりも熱く、狂おしい。

 だが李朝民に向けたはずの視線は、白いものに遮られた。

 灯りを落とし、黒衣の男たちが出入りする中で、そこだけが闇を切り抜いたように白い。揺らめく炎に輪郭をなぶせながら身じろぎもせず、李朝民を守るがごとく傍らに立つ男。

 彼女は刺すように、彼を見た。

 彼は、その一見柔和な顔立ちには思いもかけぬ、強い視線を返した。ひたむきに、暗く冴えた、どんな残酷な殺意も厭わぬ眼差し。

 よもや、彼は気付いているのか。

 剣舞に見せかけ、李朝民を殺すという彼女の狙いに。

 背筋の凍る思いで、彼女は弟に視線をすがらせた。対の踊り手である弟も、彼女を見返す。

 今は無理。仕損じる。夜は長い。機会はまだある。

 姉弟は頷き、二対の宝刀を高く投げ上げた。弧を描き、落ちてくる光を交互に受け止める。締めくくりの銅鑼が鳴り、二人は床に身体を這わせた。

 喝采、というほどではないが、一人の人間の拍手が二人の頭上に注がれた。

「素晴らしい舞だった。ここへ来て、褒美の杯を受けるがいい」

 消されていた照明がつくと、光の中で李朝民が両手を差し伸べていた。

「面を上げよ。名は、何と言う」

 李朝民の目は、舞姫を素通りし、明らかに弟のほうに注がれていた。

 双龍頭の香主は、どうやら女よりも男のほうがいいらしい、という噂は聞いていた。だからこそ、今宵の舞手には男女の双子が選ばれたのだ。どちらが選ばれてもいいように。

 だが、いざ面と向かって己の美貌を無視され、顔立ちが瓜二つと言え、装飾も簡素な弟のほうに標的の目が吸い寄せられる屈辱は、彼女には初めての経験だった。

「そちらは弟の燕飛(やんふぇい)。わたくしは姉の白蘭(ぱいらん)と申します」

 遅い変声期を迎えた掠れ声の弟に代わり、いささかの刺を含め、凛と声を張る。双子であるから年は変わらなかったが、ずっと幼い頃から、こういう場での受け答えは姉である白蘭の役割だった。

「さあ燕飛、きみのための杯だ。それとも酒はまだ飲めないか」

 だが李朝民は、頑強に燕飛しか見ていない。

 幾分の皮肉を込めて、長い耳飾りを鳴らし、過分に優雅な仕草で白蘭が身を起こす。

 燕飛は姉に倣って身を起こしたものの、睫毛を伏せたまま李朝民を見上げることが出来ずにいる。燕飛の握り締めた宝刀の柄尻で玉飾りが震えていた。あろうことか、標的を前に狼狽しているのだ。

 白蘭は宝刀を腰に吊るした鞘に戻し、弟を庇う位置に膝立ちになった。

「ご酒はどうぞお許しくださいませ、香主。

 わたくしどもはまだほんの子供、燕飛などはほんの一杯でも立てないほどに酔いますの。この場にお床をいただくことになってしまいますわ」

 無駄と知りつつ、嫣然と微笑みかける。意外にも、李朝民は微笑を返した。

「それでは伯芳と同じだな。

 二人とも来なさい。ここにあるのは酒ばかりではない」

 笑って、傍らの白い男が占有する形になっていた瓶を取り上げ、二つの杯に注ぐ。

 促されるまま、膝立ちのまま用心深くいざり寄り、はじめに白蘭、続いて燕飛が杯を受け取る。蒸留酒だとばかり思っていた飴色の液体は、口にしてみると花茶であった。ただし、もう何煎目なのか、舌の根に残るほど渋い。

「この大きななりで、伯芳は下戸なのだ。匂いにさえ酔うからと、酒の席になると香りの強い花茶を運ばせて、そればかり飲んでいる」

 李朝民が燕飛を傍らに導いたので、白蘭は傍らの、伯芳と呼ばれた男の足元に腰を落ち着けた。

 剣舞の最中に感じた、殺気も厭わぬ気配はこの男のものだったはずだが、今はもう跡形もない。それどころか、李朝民の揶揄に赤くなったり青くなったりおろおろ視線を彷徨わせている。

 先ほどの気配は、思い過ごしだったのだろうか。白蘭は改めて白服の男を見上げる。

 李朝民だけがカウチに腰掛け、一座のものは勿論、李朝民に付き従う人龍も、居合わせたものは皆高価な絨毯を敷いた床に腰を下ろしている。白蘭の傍らの白い服の男、伯芳だけが木偶のように立ち尽くしたまま、何か口を挟もうとしては断念し、朝民、とだけ小さくこぼす。

 それから視線を感じて足元の白蘭に気付き、目が合うや白い頬にいっそうの朱を潮らせた。

 李朝民が、こちらへ気配だけの微笑を投げる。それから、やや離れて控えている座長を振り返る。

「座長。今宵は素晴らしい見物だった。好きなだけ褒美を取らせよう。明日、受け取りに来るがいい。

 ところでこの麗しい姉弟ともう少し話したい。寝所もこちらで用意するゆえ、お引き止めしても構わぬかな」

 それも、代金のうちということである。意図していたとおり、李朝民は相当に美貌の舞手を気に入ったようだ。

 座長は丁重に頷き、やがて旅芸人の一座は年若い双子の舞手だけを残し、今宵の宿へと引き上げていった。

 深夜。贅を尽くした食事と入浴を済ませた姉弟は、李朝民の私室に招じ入れられた。

 二人とも舞のときの極彩色の化粧は既に落し、白磁の素肌に薄化粧だけを施してある。結い上げていた髷をほどくと、緑なす黒髪がつややかに腰まで流れ落ちた。

「これはこれは。やはり、素顔のほうが美しいな」

 革張りのソファにくつろいだ李は目を細めた。

 先ほどの舞を披露した広間とは打って変わって、むしろ事務的な冷たさの漂う部屋である。落ち着いた色合いの応接セットが置かれ、壁にも床にも非実用的なインテリアは配置されていない。据え付けの天井照明のかわりに灯されたスタンドランプだけが、アンティークな雰囲気で浮いて見えた。

 李が背にしているドアの向うに、寝室があるのだろう。李はそれが部屋着なのか、ゆったりしたカンフースーツに着替えていた。

 傍らに、やはりここでも白く浮いた男が、所在なく立っていた。

 伯芳と呼ばれていた男だ。数時間前に見たのと変わらぬ格好で、姉弟を見下ろす高さに棒立ちしながら、白蘭と目が合うと困ったように目をそらした。

「ようこそ、白蘭、燕飛。こちらへ来てかけなさい」

 李の長い腕が雄弁な仕草で燕飛を自分の隣りに誘導する。白蘭は一礼して李の正面に腰掛けた。

 テーブルの上には酒のつまみと、白磁の酒器と青磁の茶器が並んでいる。それぞれに特徴のある香りは、温めた紹興酒と花茶だろう。ひとつテーブルに並べるには、不思議な取り合わせではある。

「伯芳、いつまでそうしてつっ立っているつもりだ。客人に失礼だぞ」

「いや、朝民、俺は今夜はもう…」

 伯芳は何か言いかけたが、李の一瞥に合うと、黙って腰掛けた。他に席は残っていないので、白蘭の隣りである。

 白蘭は注意深く、傍らの男を窺った。

 李ほどではないが背が高く、無駄な筋肉もないが、鍛えられた胸板は人よりも厚い。にも関わらず、むしろほっそりとした印象を与えるのは、制服のようにきっちりと着込んだ白の上下のせいだろう。高い襟や乱れのない裾が、獰猛な筋肉を覆い隠している。

 双龍頭の香主が心意六合拳の達人であり、常に行動をともにする副香主もまた同等の使い手であることは事前に聞いていた。そしてこの一見柔和な顔立ちの男が、当の副香主であることも先ほど確認している。

 たしかに、剣舞の最中に感じた殺意をも厭わぬ気配はこの男のものだったのだろう。どこまで自覚があるかはわからぬが、害意に対する野生の敵愾心が、優雅にさえ見える外見の下に隠されている。

 この男を止めておかなければ、恐ろしいことになる。

 今宵、このままの流れで行けば、李朝民の寝首に刃を立てるのは白蘭ではなく燕飛の役目である。そしてそのとき、邪魔になるであろう敵はこの副香主で、それを留め置くのは白蘭の役目になるだろう。

「小姐(しゃおちぇ)、伯芳がお気に召したか?そんなに見つめて」

 李の言葉に、ぎくりと飛び上がったのは白蘭ではなく、伯芳のほうであった。狼狽して李を睨み、白蘭を振り返って瞬きし、また李に視線をすがらせる。

 白蘭は、艶めいた笑みを浮かべて見せた。

「これはご無礼を、どうかお許しくださいまし。こうしてお近くにはべらせていただくのも何かのご縁かと存じまして。

 ご無礼のついでに、お名前をお伺いしても?香主は先ほどから伯芳様とお呼びしているようですけれども」

 李がくっくっと喉で笑い、伯芳に答えてやれと手を振ってみせる。

「…邱伯芳」

 白蘭を振り返りもせず、伯芳はぼそりと名乗った。

「邱伯芳さま。…素敵なお名前ですわね」

 いくぶん鼻にかけた声で、ゆっくりと復唱する。これまで多くの標的をその気にさせてきた彼女の声色だ。

「古臭い名前だ」

 口早に言い訳する伯芳の白い頬に、さっと朱が差した。李とは違い、彼女にとって操りやすい獲物であるらしい。

「お二方、秘蔵の古酒を一口でもいかがかな?稀少なので大勢の賓客にもてなすわけにはゆかないが、一人で飲むのも旨くはない。今宵の来訪を心より歓迎する」

 李が口元に笑みを浮かべながら、小さな白磁の杯に酒を注ぎ、一つまみの氷砂糖を添え、燕飛と白蘭に握らせる。伯芳には薦めぬところを見ると、本当に下戸なのだろうか。

「それでは頂戴いたします。燕飛、お前は本当に一口だけよ。すぐに眠ってしまうんだから」

 燕飛がこっくりと頷く。もともと大人しい、物静かな弟だったが、変声期を迎えてからはとみに無口になった。掠れた声が喉に負担をかけるのだろうと白蘭は思っている。

「もし酔いつぶれても隣室にベッドがある。案ずることはない」

 李の何気ない一言に、燕飛の濡れた瞳が物言いたげに揺れる。同じ瞳で見つめ返し、白蘭は頷いた。毒薬を塗った揃いの獲物は、姉弟の懐にそれぞれ忍ばせてある。

 程なく、本当に一杯も干さぬうちに、燕飛の大きな瞳がとろんと半分ほどになった。何かと話し掛ける李のほうへ目線を向けるものの、時折くたりと崩れそうになる。

「これは申し訳ない。少し薦め過ぎてしまったかな。もう眠いのだろう、燕飛」

 どの程度申し訳ないと思っているのか、李が変わらずの微笑を浮かべたまま、傍らの燕飛の肩を抱き支える。

 その腕の中で、燕飛の掠れ声が、申し訳ございませんと小さく抗う。吐息交じりのそれは、聞きようによってはひどく淫らな響きだった。

「では私は一足先に、燕飛を寝所に案内しよう。

 ここにこうしているのも無粋だしな。伯芳、白蘭小姐のお相手は任せたぞ」

「あ、朝民!」

 李が燕飛を抱きかかえるようにして席を立つ。つられて腰を浮かせる伯芳の腕に、白蘭は素早く手をすがらせた。袖口から肘にかけて指先をすべらせ、自分でも思わぬ仕草に驚いた素振りでうつむく。伯芳がびくっと振り返り、そのまま立ち上がりも出来ず動きを止める。

「お前の部屋は向かいだろう、伯芳」

 その隙に、李の声と隣室のドアの閉まる音。

 伯芳は糸が切れたように、浮かしかけていた腰をソファに沈めた。


 
 

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