【集い】

 
 

 名を聞くのを忘れていた。
 否、あるいは聞いたのかも知れぬ。しかし、その響きは視界から入ってきた衝撃に彼の耳を遙か彼方に過ぎていた。
 豹の様な目だ。
 彼の瞳を捕らえて放さなかったのは、物も言わずに部屋の隅に身体を放り投げた青年の黒い瞳だった。
 不遜で、ひねくれ、何かに飢(かつ)えている黒い瞳。
 その青年は、彼を紹介しようとしていた岡本の前を視線もくれずに通り過ぎ、逞しい夏の色に染まり始める緑を見下ろす窓辺に身を寄せて、窓枠に長い脚を放り投げた。
 「おい、おい。」
 岡本は、自分たちの家主となるはずの草薙を気遣って青年に声をかける。
 そこで、初めて気付いたかのように、青年は草薙を見た。
 豹の様な瞳。
 草薙は、緑の光溢れる部屋の中で、青白い月を見た気がした。
 
 
 

 そこは東京の外れにある、大きいとは言えぬ下宿屋だった。(※1)
 吹き荒れた戦火の後、焼け野原の東京の隅にポツリと残った無駄と言える程には広い一軒家を、たった一人残った草薙が活用しようと始めたのがこの商売だったのだ。
 宮遣いの身だったから、家と商売は関係がなかった。身体が丈夫とは言えぬ草薙が、ぼんやり生き残ってしまった戦後と言う名の現代の中で、家は彼を救う才能の一つであったのだ。
 住居どころか建造物が徹底的に不足している現在の東京なのである。この家の何部屋かを貸家にすれば、懐は多少は暖かいだろう。戦争には行かなかった草薙は、町に溢れる住居にあぶれた復員兵達を見やりながら決心をした。宝の持ち腐れをすることはない。使える物は凡て使ってやろう。戦争という奴から、何とか生き残ったのだ。生き延びてやらねば割が合わない。
 かと言って、大した"つて"が有る訳でもなく、知り合いの数人にその由を話しただけだったが、この策は図に当たった。
 終戦後に動き出した、直ぐ側の活動写真会社が、丁度良いから若いのを何人か預かってくれと行って来たのだ。
 草薙は一も二もなく引き受けた。有り難い事だった。部屋に納まるのはいずれも若くて、金のない連中だが、それでも良い兆しのような気がした。
 申し出てきた会社の名は東宝。今年になって「ニューフェイス」とか言う、つい先日までなら「鬼畜米英の言葉だ」と軍部に押さえ込まれそうな名称の催しをしていた会社である。草薙自身には咎める気持ちも、ましてや興味すらも全くなかった。
 そう、興味はなかった。興味もなかったそれらの事情の結果。
 今、草薙の目の前には一人の青年が居るのだ。
 

 青年は、がっちりとした身体を窓辺に寄りかからせ、長い前髪を面倒くさそうに垂らしたまま、臆せずに草薙の目をじっと見上げた。
 太く、険しい眉。切れ長の大きい両の目と、まっすぐに伸びた鼻筋。その下には、強い光を放つ目とは不釣り合いに優しい口がある。
 「おい、三船ちゃん。一緒にここに厄介になるんだから。挨拶くらい…」
 慌てて岡本がたしなめる。どうやら、青年の名は三船と言うらしい。
 青年は、岡本の声に初めて彼に目を移した。そうしてから、改めて草薙と岡本を見比べる。幾度かのそうした仕種の後、ポケットに突っ込んでいた両手を引き抜き、慌てた仕種で立ち上がった。
 居住まいを正して、かちん、と踵を合わせる動作に、青年のついこの間までの日常がこぼれていた。
 「…どうも。厄介になります。…宜しく。」
 低い声と共に、不器用にぺこりとお辞儀をする。
 その後持ち上げられた彼の瞳には、たった今まで彼を支配していた不遜な態度はかけらも残っては居なかった。気まずく草薙の反応を推し量っているような、上目遣いの瞳。叱られた子供のように、拗ねて尖らせた口許。
 思わず、明るい暖かい笑みが、草薙の顔を綻ばせていた。
 「こちらこそ宜しく。さぁ、どうぞ寛いで。」
 

 後から、その青年の姓名も、素性も、東宝のなんたるかも、草薙は凡て岡本から聞いた。
 何でも青年は、その「ニューフェイス」と言う試験に合格した俳優の卵らしい。毎日東宝の訓練所に通い、演技の練習をしているのだそうだ。
 脚本を書きながら、現場の整備に追われる岡本はれっきとした東宝の従業員である。が、片や青年は訓練生で有るから碌は出ない。ま、貧乏具合は同じですけど、と岡本は笑った。
 僕も三船ちゃんも逆さにして振っても、鼻血くらいしか出ない。正真正銘のカラッケツだと、陸軍特別甲種幹部候補生だった青年は楽しげに笑った。
 俳優の卵。
 草薙は青年の整った顔立ちを思い出して納得した。目の勁さ(つよさ)に圧倒されて忘れていたが、確かになかなかお目にかかれない、苦み走った良い男で有るのは確かだ。
 確かに顔立ちは良い。良いが、草薙は新宮荘での彼からは、俳優らしい何物をも感じ取る事は出来なかった。
 青年はいつも、草薙の前でむっつりと無表情だ。不機嫌で寡黙で、草薙が何を語りかけても、必要以上の答えも反応も返って来る事は無い。いつも微かな怒りの匂いがする仏頂面の青年には、どう贔屓目に見ても、俳優に必要な喜怒哀楽の表情があるとは思えなかった。
 初めて草薙が青年を見た時のままの不器用なたたずまい。青白い月のような光を両の瞳に宿した怒れる存在の青年と、銀幕という夢の世界は、全く関係がないように、草薙には思えたのだ。
 

 男ばかり三人が襖を隔てて住まうようになって、一月ほどが経ち、季節は初夏から夏の終わりに移り変わりつつ有った。
 草薙は職場から帰ると、書き物をするのが常だった。元々、身体を動かすならペンを持つ指先か口、と言う性質で、一番立つのは口である。いつか文壇に立つなどと言う大仰な思いはないが、筆で身を立ててゆけたらとは、いつも思っていた。
 文壇等という堅苦しい物は何か違う。知り合いは、丁度良いから活動屋の所に書いた物を持って行けなどと囃したが、それも何かが違った。その違いが何か分からぬままに、草薙の書く物は日々、少しづつ貯まっていった。
 万年筆を握って、文机に向かう。蝉が直ぐ近くで鳴いていた。
 不意に嬌声が響いて、草薙は原稿用紙から目を上げて耳を澄ます。
 騒いだからと言って、周りの人間がとやかく言う場所ではない。岡本はしょっちゅう奇妙な声で朗読をするので、草薙自身も物音にさして驚かなくなっている。草薙が興味を引かれたのは、その声が岡本の物では無かったからだ。
 どたどたと騒ぐ音と、その後の笑い声。楽しげな声が何往復かの言い合いをした後に舌を打つ。仏頂面の青年の声と知って、草薙は奇妙な寂しさを感じた。
 笑い声など、自分が最後に発したのは何時だったろう。別段悲観的な性質ではないが、役立たずで今と言う時を迎え、心の拠り所が何処にも無い草薙には、大声を上げて笑う程の楽しい事など何もなかった。
 ごく普通に朝を迎え、ごく普通に昼を過ごし、ごく普通に夜眠るだけだ。生きるだけの平板な生活に特別な喜怒哀楽は無かった。
 そこまで思って苦笑する。青年の事は言えぬではないか。喜怒哀楽と無縁なのは自分の方だ。
 自分はいつもこうだ。いつもこうして取り残されていくのだ。戦争からも、時代からも、人々からも。
 若い二人のふざけ合いに、乾いた疎外感を感じつつ、草薙はその場に寝転がった。
 あの青年も声を上げて笑うのだな。そんな下らない事を確認しながら。


 


 
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【この物語はフィクションです。実在する個人/団体名をお借りしておりますが、事実とは無関係です。】
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