【始まり】

 
 次の朝、いつもの通り草薙は八時に家を出た。
 向かうのは草薙の現在の職場、東京都世田谷区役所玉川支所である。出張所がこちらに移って支所となったばかりの物で、それなりに職場らしい建物になっている。
 一枚20円のワイシャツに袖を通し、履き古した靴に足を入れる。賄い兼小間使いの千絵が入れ替わりのタイミングで玄関の引き戸を明ける。通りの良い声があら、と叫んだ。
 おはよう、旦那さん、またそんな顔色をして。
 草薙にも自分の顔色は分かっている。どうせ生白いのだ。それを確認されたからと言って、治る訳ではない。草薙は千絵に向かって曖昧に笑って靴を整えた。
 小さい男だ。こんな時は一層そう思う。人の言葉の端を捕らえる自分は滑稽だ。
 千絵と言う、この女には悪気は無い。人の良い人間にありがちの無神経さと傍若無人さを併せ持つ、ごくごく平凡な五十絡みの年増だ。悪意などこれっぽっちもない。情に厚く、人なつこく、面倒見の良い気のいい女だ。だから草薙も彼女に下宿の世話を頼んだのだ。
 彼女は全く悪くない。気にする自分の方が歪んでいるのだ。自らに言い聞かせ、持ち慣れた鞄を一つ小脇に抱える。
 朝夕は寒くなった。厚手とは言えない上着の襟元を掻き合わせる。框から立ち上がるとほぼ同時、頭上から声が降り注いだ。
 「……あんた、おしゃべりじゃ無いよな。よけいな事は言いっこなしだ。」
 低く、ぶっきらぼうな青年の声だった。
 
 

 遠くに「リンゴの歌」が聞こえた。春先にレコードが出たからだそうだが、それからと言う物、この曲を聴かない日はないと言って良い。馬鹿の一つ覚えだ。草薙は、耳にタコが出来る程聞いたその歌に溜息を吐いた。
 曲に合わせて、替え歌を声を出さずに口ずさむ。

 赤いリンゴの露店の前で 黙って見ている青い顔
 リンゴの値段は知らないけれど リンゴのうまさは良く分かる
 リンゴうまいや 高いやリンゴ

 こっちの方が本物よりマシだ。
 すし詰めの電車に納まって、人の喧噪に他の音が掻き消えると、草薙は改めて舌を打った。忌々しい。
 一体何事だと言うのだ。
 出勤前で時間が無く、呆気にとられて何も言えぬまま家を出たが、酷く中っ腹な気分だった。
 青年の無愛想な声が耳によみがえる。よけいな事は言いっこなしだ。確かにそう言った。
 よけいな事とはなんだ。言いっこなしだとはなんだ。
 医者を呼んで、手当を受けさせてやったと言うのに、その礼の一言もなく、よけいな事を言うなとはどういうつもりだ。
 大体、「余計な事」というのは何だ。何が余計なのだ。一体誰に言うなと言うのだ。全く、これだからアプレゲールというやつは…。
 そこまで胸の中で毒づいて、不意に面映ゆくなる。
 いくら若いと言っても戦争に行って帰って来た年だ。岡本にして二十二、青年は、と言えば二十六。
 そして彼らをアプレゲール扱いする草薙自身もようやっと三十を越しただけである。大した年の差が有る訳ではなかった。最低で数年、大きくとも十年の差だ。
 溜息を吐いて空を見上げる。
 だがこの十年の差は大きい。この十年の間に、大きな川が流れている。その川の名は、大東亜戦争と言った。
 
 日本が大東亜戦争に参戦したのは、昭和16年12月8日。
 「新高山登レ」の指令で、ハワイ真珠湾に集結していた米戦艦群を、九十七式艦上攻撃機や九十九式艦上爆撃機が叩いた。それが参戦の火蓋を切る事となった。
 草薙が二十六の冬だった。
 寒い冬枯れの日。熱で動けぬ布団の上で、幾度も声高に叩き付けられるラジオの悲鳴を聞いた。
 トラトラトラ。我、奇襲二成功ス。
 熱を持った体の中で、訳の分からぬ高揚と、それより数十倍も大きい失望に震えた。霞んで見える白い壁の室内から、灰色の空を見上げて震えた。そんなあの日の事を思い出す。
 成人に達した男子は、例外なく軍の徴兵検査を受けた。甲種合格者は凡て軍に従事し、乙種合格者の多くは軍に従事した。大学在学中の者だけは兵役延期などの僅かな例外も有ったが、それも免罪符にはならなかった。
 有事でなければ、兵役が終われば軍を退く。太平洋戦争以前に軍を退いた者の中には、年が近くとも赤紙が届かなかった者も少なくはない。
 しかし、岡本や三船の世代は甲種合格者は漏れなく出征、乙種合格も殆どが出征した。岡本も三船もその伝に漏れず出征し、生きて帰って来られた者達なのだ。
 甲種合格者は漏れなく出征、乙種合格も殆どが出征。そして。
 丙種合格の者は役立たず、だ。
 
 終戦から一年と少し。
 電車の混み方も風情も昇降口も変わらない。ドアだったり窓だったり。入れる所が昇降口で、それに不平不満を訴える者は誰もいない。改札を降りると、DDTを持ったGHQが待ちかまえている状況も余り変わっているとは思えない。
 だが、日々和装より洋装の人間が増え、体臭や腐臭とは違う鼻につく合成の香りが、何かの折りに鼻をくすぐる機会が増え、確実に時が流れている事を感じる。またか、と草薙は思う。
 また、自分だけ置いて行かれるのか。
 青年の事が理解できないのはアプレがどうこうと言う所為でも、まして世代の違いの所為でも無い。自分だからなのだと思って草薙は溜息を吐く。そうだ、自分だからだ。
 非国民、お荷物。そう言われて来た自分だからだ。
 日本国民が総力を挙げて、戦争と言うお国の一大事に邁進している最中、まるで生きている荷物のように白い天井を見てきた自分に、彼らの事が分かる訳など無い。分かる訳など無いのだ。
 戦争に行き、生きて今の世にある彼らと自分は、所詮違うのだ。
 

 草薙の、言葉に出来ぬ思いは、日々の生活に呑み込まれて行く。
 草薙自身も、それが当たり前だと思っていた。自らの思いなど、口にする必要はないし、また口にする価値も無い。口を閉ざして日々を過ごす。それが彼の常識であり、世の中の常識の一部でもあった。
 その日、草薙は知り合いの農家に足を運んだ。配給だけでどうにもなる訳もない。昔からのつてを辿って幾つかの農家を回り、食料を鞄一杯に詰め込んで家路を急ぐ。
 勿論、正規の手続きで有る訳がないので、これもいわゆる「闇」に当たる。家に着く迄に警察に捕まれば、お上の名の下に綺麗さっぱり没収である。それはどうにも困るのだ。
 いかにも本を詰め込んだ鞄であるフリをして、食料で膨らんだ鞄を両脇に担ぎ、歩き慣れた道を急ぐ。怪しまれない程度に、堂々としたつもりで家路を急いだ。
 あとほんの十分あまり。道なりに緩やかな曲線を描く一本道を歩ききり、でこぼこ道を右に曲がれば、目指す我が家までは目と鼻の先である。あと少し。
 そう思った瞬間、背中をぽん、と叩かれた。
 首をすくめる草薙の目の前に、草薙より幾分小さな身体が回り込んだ。見慣れた岡本の顔が、勝ち誇ったように笑っていた。
 「こいつ。」
 軽く額をこづく。人なつこい岡本の笑顔に、不意に仏頂面の青年の笑顔が重なった。

 よけいな事は言いっこなしだ。

 あの台詞から数日を経たその日。青年の台詞の意味が分かったのは、その日のことだった。


 


 
←前の頁へ  次の頁へ→
【この物語はフィクションです。実在する個人/団体名をお借りしておりますが、事実とは無関係です。】
(C) Copyright A/T 富田安紀良