□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 

 

*** とある准教授の日々 4 ***


 まったくもって。
 後悔と言うのは後からやって来ると決まっている。だから後悔と言うのだ。
 凡ての行為を済ませた後、正確には一晩ぐっすり眠った後、それはやって来た。
 越してしまった酒の量をいかんともせず、爽やかな寝覚めの中、例えようも無いそれがやって来た。いわゆる、後悔の嵐と言う奴だ。
 後悔の理由は多数有ったが、一番の理由は実に下らない。意識がはっきりして最初に痛烈に感じた事は、実に下世話で本能的なものだった。「男で抜いてしまった!」そんな物だったのだ。
 人生の経験も、品性も知性も有った物ではない。実に動物的で、本能的だ。全くもって。ザマはない。
 余程不機嫌な顔をしていたのか、食卓についた私の顔を覗き込んで妻が首をかしげた。
 昨日は上機嫌だったのに、すっかりご機嫌ナナメね。一体何が有ったの? そんな質問に答えられる筈も無い。曖昧に笑って話をそらしたが、勘の良い彼女の事だ、何かを感じている事だろう。何を感じているかを聞く度胸は、私には無い。
 問題は。
 根源的なものだと言う事。道徳云々を説く以前の、これは生物の本能の範疇だ。性は理屈ではない。感情や理屈と言う、大脳の新皮質が生み出した物ではない。根源の、本能だ。
 雄と雌は種族維持の本能でつがいを作る。私は雄で、正しく雌の妻とつがいになって巣を作り、子も儲けた。正しい雄であった筈だ。だと言うのに。
 何と言う事だ。不惑も後半に入って久しい今、自らの性癖を知る事になろうとは。知らなかった。私は男も愛せる人間だったのか!
 これが一番応えた。
 道徳も、規範も法律も、頭を使えば理解出来る。本を読み、人に教えを請い、自ら学べば必ず理解出来る。だが己の趣味趣向は。こと性に関しての事柄は。一体誰に教えを請えよう。一体どうして頭で理解出来よう。本能は大脳ではない、小脳や脊髄や、恐らくは身体に宿るものなのだ。
 対抗出来ずに、週末は一頻り落ち込んだ。妻の励ましが逆に痛かった。
 だが、週も始まると意識は変るものだ。
 男の生理など到って受動的で単純な物だ。性的な物音や事物に晒されれば、その場の雰囲気で勃起する。それが持続すれば処理は必然だ。それだけの事だ。排泄口は雌にも有る。性的行為の出来る部分に反応するのは、生物としては普通の事だ。そうだ。その程度の問題だ。その筈だ。
 ただ。本能は「仕方ない」で割り切れても、割り切れない物が残った。本能ではない、今度は理屈だ。理性だった。
 その性の対象が問題だ。知り合いであると言う事が問題なのだ。
 男性に性的欲求を感じた事は、私は無い。少なくとも今までは。だが長沢君には。
 間違いなく感じたのだ。いや違う。
 今も感じているのだ。
 性質が悪い。
* * * * * *

 
 月曜になったと思ったら金曜で、慌てて資料を集める。
 今週は週半ばに二日続けて夜の抗議活動に出かけた所為で、いつもより更にあっと言う間と言う感覚だ。
 今回の講義では、札幌医科大学の高田純教授が先日上梓した「核の砂漠とシルクロード観光のリスク」を取り扱う事にした。今週の抗議活動の内容が、支那の新たな核実験であった事もあり、取り扱うなら今だと言う事になった。
 折もおり、米の戦略核削減が、「核廃絶」が出来ると信じているお目出度い連中に諸手を上げて迎え入れられている時である。米大統領の子供だましの核削減宣言の真実の意味と、支那が現在も日本に向けている30kt〜5Mtの核ミサイルの話をするのはタイムリーだ。何の為に支那が核実験を繰り返すのか、その意味も改めて語ろう。
 勿論、私の専門は化学ではなく歴史文化学であるのだから、核分裂の何たるかを語るのではない。毛沢東の思想が作り出した現在の強大な支那と言う存在を語りたいのだ。
 かつて毛沢東は「一皿のスープを啜り合っても、ズボンをはかなくても、核兵器を作る」と国民の窮乏を礎に核開発に勤めた。核がなくては米に並べない。一等国になれない。そう分かっていたからだ。一等国になる為には国民の命など、大した事ではなかったのだ。
 日本に無いのはこうした冷徹さだ。残虐性だ。表現が適当でなければ、強さなのだ。
 現在の百万の命の上に未来の一億の命がある。支那人は未来の一億の為に平気で百万人を殺せる。これは絶対、日本人に真似の出来ぬ事だ。善悪ではない、それが国民性であり民族性なのだ。それを語ろうと思う。
 コンコン、と扉がなる。本を睨んだまま、はい、と答えると、するりと一人の学生が入って来た。
 鉛筆を咥えたまま、目線を上げる。少しばかりどきりとした。
 「どうも、先生」
 高樹友司。一週間前からの私の動揺は、凡て彼が元になっている。
 本から顔を上げる。少なからず恨めしい思いで椅子の背に身を持たせかける。どうぞ、と言う言う替わりに椅子を手で指し示す。会釈して彼が座るのと同時に小さく溜息を吐くと、彼がかすかに笑った。
 「ご覧になったんですね」
 勝ち誇ったような表情に見えたのは、私の思い過ごしかも知れない。だが私は、そこに確かに彼の悪意を感じたのだ。ほら見ろ、結局はお前も俺と同じじゃないか。何らかの理由がありさえすれば、お前だって人を平気で傷付けられる、踏み躙れる。友人になりたいと願った人物さえ、容易く陵辱出来るのだ。
 「そりゃあ、見るだろ。道徳と欲望で欲望の大勝。ちらりと見てしまった物は結末まで見たいのが人情だ」
 「結末……ですか。全部ご覧になったんだ」
 素直に認めて頷く。私の嘘は決して上手い物では無いから、バレて格好の悪い物は先にバラしておくに限る。だから隠すつもりも無かったが、次の彼の台詞には、少なからず瞠目した。
 「抜けましたか」
 思わず言をつめる。真正面から彼の顔を見てしまう。お前も俺と同じじゃないか。そうはっきり聞こえた気すらした。
 高樹君は椅子の上でゆっくり一回深呼吸をしてから立ち上がった。
 「今日は長居をするつもりは無いんです。――ただ、一言お伝えしようと思っただけですから。お渡ししたデータは、先生が保管するなり捨てるなり、好きになさって下さい。――― それと」
 保管。他意はなかったのかもしれない。だが私にはそれが罵倒にも聞こえた。他人の性生活を盗み見て、それを取って置きたいんだろ?そうした意思を感じた。息を飲んだまま次の台詞を待つ。高樹君はゆっくり立ち上がり、扉に顔を向けたまま吐き捨てた。
 「貴方にデータを渡した事は、マスターにも伝えましたので」
 席を立つ。そのまま進み出る。確たる思考などは無かった。ただ、去りかける彼の肩を掴んで振り向かせる。抵抗する身体が反射的に肩を払う。私は同じ場所を掴み返した。小さなもみ合いになる。
 「…おい、君。待て。……待て!」
 何度目かの小競り合いの後、がっちりと肩と腕を掴んで振り向かせる。怒りの瞳がこちらを振り返った。
 これが逆ギレと言う奴か。青年の怒りを見て、私の方は急速に冷静になる。冷静になると言うよりは、はっきりと呆れたのだ。
 「驚いたな、高樹君。君、一体、悪趣味が過ぎるぞ」
 高樹君が一瞬私を睨みつけ、その後に俯く。掴んでいた腕にこもる力が、ゆっくりと穏やかになった。
 そうだ。言ってから気付く。一体これは何だ。
 性生活は私が勝手に覗き見たのではない。彼に見ろと投げ与えられたのだ。与えられた物を素直に見たからと言って、責められるのは理屈に合わぬ。すこぶる理不尽ではないか。見た結果、私の中に例えば何かが起きたとして、彼がその責めを受ける事は有っても、私が責められる謂れなど無いではないか。
 そうだ。私はただ、翻弄されているだけではないか。彼に。高樹君に。
 「長沢君の恥になるだろうデータを、私に渡したのは君だ。そうしておいて、それを渡した事を長沢君にも言う?何故?」
 大きな目が睨みつける。こうしてみると、青年ははっきりした大きい目をしていたのだと思う。
 「渡したのは僕ですが、見たのは貴方だ。それを秘密にするのはフェアじゃない」
 フェア。驚いた。DVDの中の行いの是非を問うのではなく、そのDVDを他者に見せた事の是非でフェアか否かを問うと言うのか。その価値観は、全く持って分からない。高樹と言う生徒は、理知的で理論的であった筈だ。だと言うのに今はどうだ。
 何故、この事柄に対して、かようにも滅茶苦茶なのだ。
 思わず見つめる。脳の中を探るつもりで瞳を覗きこむ。青年は反射的に睨み返し、その後に目線を下げた。
 「――フェア。フェアだって?誰が、誰に対して?」
 青年が押し黙る。混乱が表情に溢れ、そのまま腕を振り切る。今度は私も止めなかった。
 失礼します。そんな言葉と共に背中が去っていく。扉に飛びつき、まろび出る。後ろも振り返らず、逃げ去る。
 その背中を眺めながら、奇妙に得心が行った。
 そうか。
 翻弄されているのは私だけではない。彼もなのだ。無理矢理作り出したいびつな理屈に囚われて、雁字搦めになっている。整合性を合わせる為に努力すればする程、どんどん居場所が無くなっていく。恐らくは一番、翻弄されているのは、彼なのだ。
 では、誰に?
 彼は誰に翻弄されているのだ?
 
* * * * * *

 オープンカレッジの講座は、全くいつも通りだった。
 数枚のコピーを前から後ろに回して貰い、備え付けのプロジェクタを稼動させての講義。質疑応答。見慣れぬ顔のない、サークルの勉強会。いつしか若き活動家たちに溶け込んだ黒縁眼鏡も、そこに居た。
 心中でほっと胸を撫で下ろして講義を始める。
 議題がタイムリーだった所為で、食いつきは良かった。特に若者層がビビッドに反応した。
 核即ち武器、即ち危険、と言う考え方はいかにも古い。核の平和利用無くして、未来のエネルギーを語る事は出来ぬし、核は廃絶すべき技術ではないのだ。平和利用としての核は勿論、兵器としても、である。
 一度生まれた兵器がなくなる事は無い。ただ、使用されなくなる場合は有る。それはたった一つ。更に強力で凶暴な兵器が生まれた時だ。素手よりは剣、剣よりは銃。人はより強力な武器を求めるからだ。
 では、核兵器より強力な武器とは何だ。現段階では想像に難い。
 強力な武器は無くす必要は無いのだ。より凶悪な武器を生み出す未来より、核をコントロールする未来が平和的であるのは確実だ。廃絶ではない、今求められるのは完全なコントロールなのだ。
 一番恐ろしいのは核を持つ事ではない。核が正しい管理者を失なう事だ。使用すべきではない者によって、核が乱用される事は、即ち終末を意味するからだ。
 講座はシルクロードの核被害に始まり、日本が自国の核を持つべきだと言う結論で終った。免疫の無い一般日本人にとっては眉を顰める話題かも知れぬが、私の講座を聞きに来るような連中でこれに引く者はいない。賛否はあるが、議論自体を揶揄する者はいない。
 講座は予定の一時間半を若干越え、九時過ぎに終了した。
 「ふい〜〜。先生、来週の議題は何ですか〜」
 生徒の一人が伸びをしながら涙声で言う。私も釣られて間延びした声になった。
 「ん〜〜。緊急の議題が無い限り、次回は"鯨食文化と肉食"」
 うわぁ…。
 生徒から漏れる感嘆に手を振って応える。様々な情感のこもった嘆息に聞こえたが、良きにつけ悪しきにつけ反応が有った方が講座は盛り上がる。
 教室に居る三十名弱が、バラバラと立ち上がる。仲間内で話し込む者、携帯に手を掛ける者、のんびりと身体の凝りを解す者の中で、後ろの席に座っていた細い身体がそそくさと席を立った。
 あ。
 「ああ、待って待って。君」
 声が届かぬのか、背を向けた身体が扉をくぐる。ほぼ同時に抗議仲間の連中から私に声がかかった。
 「先生、今日は呑みに行かないんですかー」
 声に手を振って廊下に駆け出す。教室の後部扉から出た人影が、手荷物を直しながら顔を上げ、びくりと身を引いた。
 ああ。そうされて初めて気付く。彼の顔を正面から見たのは久しぶりだ。度の強い眼鏡の所為で、大きな瞳はレンズの奥に縮こまっている。悪戯を見咎められた子供のような表情も、おどおどとした雰囲気も、改めて確認して驚く。
 私は一体、この人の何に腹を立てていたのだろう。
 「間に合った。話が有るので、悪いが少し残っていてくれるかな」
 言うだけ言って踵を返す。去り際にもう一度視線を送って頷いてみせると、黒縁眼鏡が困惑気味に俯いた。了解してくれたかどうか気にはなったが、強引に押す訳にも行かぬだろう。抗議仲間の呼びかけに戻る私の視界の隅に、しょんぼりと教室に戻る姿が入った。
 「今日のところは別件があるんで、また今度だな」
 えー。若い声の非難が上がる。ある意味、講座より反応が良いのだから癪である。
 「それより明日、11時集合だぞー。プラカード類も頼むなー」
 はあい。
 幾つもの答と共に生徒達が去って行く。短い会話を交わしながら、一人減り二人減りし、最後には抗議仲間の連中が掃ける。広い教室に人影が二つきりになって、私はゆっくりと長沢君に向き直った。
 さて。無意識でそんな言葉が出る。さて。何からどう説明しよう。
 長沢君は教室の端の、一番後ろの席にちょこんと腰掛けている。荷物を凡て纏めて膝の上に置いたまま、居辛そうに俯いている。私は悩んだ挙句、思い切りの笑顔で歩み寄る事にした。
 長沢君は私を確認して俯き、上目遣いに私を見上げると唐突に立ち上がった。
 「せ、先生は暴君です」
 度肝を抜かれて立ち止まる。言われた言葉を反芻し、驚くのと同時に少々納得する。確かに先週の私の態度は横柄だった。それを暴君と称するのなら、理解はする。するが。少々表現がそぐわないのではないか?
 「お、俺にだって、その。
 講義を聞く権利は有ると思います。少しですが受講料払ってますし、ご迷惑はかけないよう、端っこで聞きます。質問もお嫌でしたら遠慮します。それでも慎先生…浅井先生がどうしてもご不快なら、それは諦めますが…。で、でも。一考頂く権利くらい、ある筈だ!」
 長沢君が言わんとする意味が分からずに眉を顰める。鼻息も荒い言葉は凡て聞いているのだが、良く理解出来ない。決死の表情から、事の重大さは分かった。分かったが、肝心の内容が飲み込めない。
 「………え?」
 「先生は、ご覧になったんでしょう。俺のその……」
 言い淀んで俯く。伸びた前髪と黒縁眼鏡と髭の所為で、俯いた長沢君の表情は良く分からない。小さな舌打ちの後で、何かを振り切るように顔を上げる。ああ、と思った。
 苦渋の表情だ。DVDで見たのと、同じ。
 「高樹君から聞きました。俺の画像を先生に見せたと。だから、先生は先週から俺を避けておられる。
 いや、分かりますよ。先生を責める気は有りません。普通の男性だったら拒否反応有って当然です。俺にだってそこは良く分かってます。でも。
 別に俺が、直接先生を煩わせる事は有りません。一対一でご教授願いたいと言ったなら、拒絶されてもしょうがない。でも、沢山の受講者の中に混じって講座を聞くくらいは許されるんじゃないでしょうか。そっと聞いて出て行くだけなのに。俺だって受講者には変わりないのに。それも駄目なんですか。
 そんなの……あんまりですよ」
 やっと納得する。なるほど、それは暴君だ。私は……正直驚いていた。
 彼が述べている主張はたった一つだ。"講義を聞かせろ"。それだけだ。彼にこんな表情をさせているのは、紛れも無くこの自分なのだ。
 上目遣いの目が睨みつける。怒っていると言うよりは、こちらを伺うような様子で、懇願しているようにも、媚びているようにも見える。私は、気付けばぼうっと彼の瞳を見つめていた。
 久々に、友達になりたいと思った人間だったのだ。
 人の良さそうな笑顔に惹かれた。話してみて、その機知に惹かれた。もっと良く知りたいと思った。知り合いたいと。そう思った癖に、容易く裏切られた気になって八つ当たりしたのは私の方だ。
 長沢君が目を反らす。眼鏡に遮られない横顔で、長い睫毛が瞬く。痩せた頬に影が落ちる。ああ、と思った。
 何の事は無い。私は。
 「申し訳ありませんでした」
 深々と腰を折る。長沢君は動かなかった。
 これは。執着心だ。私の身勝手な、一方通行の。
 「君にそんな思いをさせていたとは、僕の不徳の致す所です。申し訳ない。先週の態度は理不尽極まりなかったと反省してます。どうか僕の言い訳を聞いて欲しい」
 頭を下げる。間を置いて顔を上げると、戸惑った表情があった。
 「座ってくれると、話がしやすい……」
 言いながら、長沢君の座っていた席の隣の並びのテーブルに着く。立ちすくんでいる長沢君を見上げると、小首をかしげたまま、髭面が席に沈んだ。同時に、きゅう、と互いの腹がなった。
 反射的に顔を見合わせて、つい笑う。私が惹かれた温和な笑顔がそこに有った。
 「どうだろう。お詫びに私に奢らせて欲しい。何か食いながらじっくり言い訳を聞いて貰えないだろうか?」
 ああ。髭の中の口許が溜息混じりに呟く。
 「先生がそう仰るなら、俺に異論がある訳ないですが……」
 戸惑いが消えない表情の中の黒縁眼鏡。翻弄したのは誰なのだ。高樹君なのか、長沢君なのか。ただ私は。
 翻弄されるばかりだ。
 
* * * * * *

 どこに行くか迷うのも面倒で、私の行きつけのお多福に向う。
 長沢君は俯きがちで、何か色々覚悟をして居るようだが、それに気付かぬ振りで私はさっさと先を歩いた。
 お気に入りの席に着いて、まずはビールと決まり文句を言い、前回長沢君がつまみの類を慌てて頼んでいたのを思い出して、腹にたまる物を幾つか共に頼んだ。取り敢えずの手続きを終えて一息つく。前回は無かったしじまが有った。
 私より、二つ下だと言っていた。
 年相応の外見だと思う。量の多い髪の毛は、所々に白毛が混じり、削げた頬は年齢を感じさせる。
 不恰好な眼鏡の所為で面相を崩しているが、可愛らしい顔であるのは、不本意ながらDVDで知ってしまった。喫茶店主で有るなら、格好を気にすれば良いのに。
 ビールが届いて、私が素早く二人分を注ぐ。すみませんと頭を下げる眼鏡の前にグラスを突き出す。
 「まずは、乾杯。形だけでも」
 一瞬躊躇した長沢君は、苦笑してグラスを合わせた。
 「乾杯!」
 「乾杯」
 ビールを煽る。講座を済ませた後のビールは美味いのだ。グラス半分ほど飲み下して一息つくと、目の前に空のグラスを置く長沢君の姿があった。
 「……え」
 余りのビールを手酌で注ぎ、それも煽る。
 「すみません、同じのもう一本」
 おばちゃんに会釈してそつなく注文を終え、自分のグラスを空にする。大きく息をつく黒縁眼鏡を、私はじっと見守っていた。
 「……あの」
 「はい?」
 「空きっ腹に流し込むと、回り過ぎて潰れるって…前回…」
 見る間に長沢君は赤くなって行く。言う通り酒には弱いのだ。少々目つきも座っている気がするのは、流石に思い込みかもしれない。
 「素面じゃない方が良い時も有ります」
 納得してグラスを握る。私の方は、逆に今日は酔えない気がする。酔ってはいけない気もするし、丁度良いだろう。私がしっかりしていれば、長沢君が潰れても大丈夫だ。何しろ軽そうだ。抱えて運ぶくらい何と言う事は有るまい。
 抱える、と言う発想に、不意に気まずさを感じてグラスに口をつける。酔いが回った長沢君は、先程よりは居心地が良さそうだ。
 「まずは……そうだな。状況を説明させて貰いたい。何しろ昨日、高樹君にいきなり"画像を見せた事はマスターに伝えました"と言われて、私自身非常に慌てている所なので」
 長沢君が驚いたように顔を上げる。
 「昨日……?」
 「え? あ、ああ、そう」
 「昨日の何時ごろですか?」
 「あれは……18時…半。過ぎくらいだったかな……」
 ああ、と溜息交じりの声が漏れる。
 「俺の店から帰る足で、先生の所に行ったのかも知れませんね……。俺も昨日、彼から聞いたので…」
 声の調子に顔を上げる。俯いた顔の表情は暗いのに、頬だけが赤くてちぐはぐだった。
 DVDを見ていた時にはピクリとも動かなかった罪悪感のメーターが、今頃になって動き出す。私は彼の恥を見た。見ただけではなく楽しんだのだ。その情景を、状態を味わって楽しんだ。彼の苦痛が私の快感になったのだ。
 味わった快感の分が、そのまま罪悪感になる。
 私の個人的感想は知らぬとしても、彼は私が彼の恥を見たと言う事実を知っている。全くの部外者に、自らの恥を見られるのは苦痛だろう。しかもそれを見た相手に、その事で尋問されるのは更に苦痛だろう。
 「彼は…高樹君は、あの一件の後もまだ店の方に行くんですか?」
 あの一件、の言葉に首をすくめる。ゆっくりと頭が振られた。
 「いえ。一度だけ、閉店寸前に来て、申し訳なかったと土下座されましたけど…それ以降は」
 「土下座?」
 違和感が有った。
 傷害事件を打ち明けた時の高樹君は、確かに自らのした事を後悔していた。私にも詫びていた。だがその後の。
 
 ―― 渡したのは僕ですが、見たのは貴方だ。それを秘密にするのはフェアじゃない
 
 そう言った彼から感じたのは…怒りだ。苛立ちだ。侮蔑と、混乱。恐らくは私に対してではない。私の目の前の…長沢君に対する感情だ。土下座と言う行動とは繋がらない。
 「…はい。俺は、もう良い、と答えました」
 違和感が募る。
 高樹君がぶつけた物は怒りだ。それをぶつけられた長沢君の対応は。
 「は?」
 「…… ええ」
 「……もう良い……? って。ええ!?
 君、あんな事をした奴を許したと言うのかい!?」
 長沢君は一瞬、ひたと私を見つめ、ゆっくりと目線を下げた。
 「はい」
 疑問に意識が押しやられる。理解出来なかった。
 事件までの、高樹君と長沢君の関係は、私は知らない。喫茶店の常連とマスターだとは聞いているが、そんな社会的身分だけが関係の凡てでは無いだろう。もっと感情的なぶつかりや蟠りが有ったのかも知れぬ。だが。
 何が有ったにしろ、高樹君が彼にした事は暴行だ。一人ではなく、人数を頼んで暴行したのだ。しかも。殴る蹴るの暴行だけではなく、普通は男性では有り得ない、性的暴行まで加えたのだ。それが許される事だろうか。
 私自身が被害者だと仮定すれば恐らくは…、いや、絶対に許せない。
 俯く目の前の人に、一週間前まで抱いていた気持ちがかすかに頭を掠める。疑惑、苛立ち、怒り。穏やかな表情に裏を感じる。私はその思いを振り払った。
 違う。疑惑、怒り、苛立ち。そうではない。それを装った、これは。
 嫉妬だ。
 溜息をつく。
 「長沢君。やはり僕の言い訳を聞いて下さい。話を聞くだけでも辛いかもしれないが、申し訳ないがこのままでは互いに蟠りが拭えないと思う。聞いた上で、君は自由に今後の行動を決めて下さい。ただ、先に申し上げておきたいのは」
 頭を下げる。
 「先週の僕の態度は間違っていました。僕の一方的な勘違いが有って、態度に出てしまった。君には責められる謂れ等微塵も無い。被害者だ。僕はそれすら分かってなかった。教師として、いや人として僕は間違っていた。申し訳ない。
 その上で言わせて貰うが、確かに僕は"そちら"に興味は無いし、嫌悪感も否定しない。が、君を気持ち悪いと思った事はない。そうした差別をする気もない。講義に参加頂くのは大歓迎だ。意見も質問も今迄通り頂ければ有り難い。
 本当に、申し訳なかった!」
 頭を下げたまま、暫く反応を待った。応と応えて貰えばやり易いが、否でもこちらの状況説明だけは聞いて貰おう。そう決意して待つ。
 ほんの数秒だったのかも知れぬが、何の答え(いらえ)も無かった。躊躇った挙句にそっと顔を上げる。長沢君の表情を盗み見て息を呑んだ。
 黒縁眼鏡の奥の目は、じっとこちらを見ていた。
 凝視すると言うよりは、背景を見晴るかすような目で、ぼんやりこちらを見ていた。そこまでは良いのだ。
 だが。
 「長沢君……?」
 レンズの奥の目が大きい事は知っている。そこに溜まる液体も、恐らくは多いのだ。
 涙を湛えた両目がそこに有った。
 
* * * * * *

 
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